夏休み

二週間後に秋のセメスターが始まる、といいながらハーバードの学部生の中国系アメリカ人の女の子が去っていった。課題におわれて平日の睡眠時間が4時間だというのだから厳しい学生生活がまた始まるのだろう。明日の朝早くの飛行機なのに夜半過ぎまで私のオフィスでうろうろと最後のデータ整理をしたりしていて、去り際になって私にプレゼントだといいながら赤ワインのボトルを手渡しつつ泣きそうになっていた。研究の指導をするだけではなくて、あちらこちらにつれていったり、夕飯を作ってあげたりしているうちに(さすがに激しい飲み会には誘わなかった)私も娘でもできたかのように情が移ってしまったのだが、眼を潤ませて泣きそうな彼女の顔を眺めながら、ああ、ついこのあいだ20歳になったとはいってもやっぱりまだ子供なんだなあ、なんて思っている自分が年寄りくさくてなんとも悲しくなる。
二ヶ月の間ほとんど、いわれるままに実験と解析に明け暮れていた彼女なわけだが、なにか得るものはあったのだろうか、と不思議な気分になる。私の学部の二年の夏といえば猿の行動の調査で猿なみの生活をしたり山を縦走したり、登山ガイドをしたり、と一ヶ月半にわたって浮浪者のごとくほっつきあるいていたわけだが、この人生二度とそんなことはおそらくできない、と思う。一方で彼女の学部二年の夏は猛烈に忙しい研究所のへんてこりんな日本人研究者に巻き込まれた二ヶ月だったわけで、研究者になりたいという彼女にとってキャリアにはなるだろうけれど良かったのかなあ、と漠然と思う。
私もこれから料理をしようと思うので、レシピを送ってください、と彼女がいうので、そのうちレシピの本をパブリッシュするから待っててくれ、と冗談のつもりで私はいった。その本、できしだい私に送ってください、とまじめな顔でいうので、頭をかきながら、はいそうします、と私は少々罪悪感を感じつつ答えた。彼女がとてもよろこんでなんどもおいしいと連発したのは蒸し茄子にえのきのお吸い物だった。いつか彼女が蒸し茄子を作って得意げに恋人に供するところを想像するとなにやらとても愉快な気分になる。