2.5次元

うちのバルコニーの前には木立がある。天気がいいとバルコニーに座ってぼけっとしていることが多いのだが、そうやって木立を眺めていると、こちらの枝からあちらの枝へ、と忙しく飛び回る小鳥に注目してしまう。その運動を眺めながら、すごい優秀な空間認識能力だなあ、と感心する。上下左右を自由に移動するには、羽があるという物理的なツールを前提とするのはもちろんだが、3次元空間情報を一瞬にして処理しながら運動に結びつけることが必要だからである。我々人間のことを思えば、その移動が基本的に平面上の移動に限られるためか、3次元的な空間を想像することはできても、どうしても2次元の延長上に3次元空間をとらえている。小鳥の動きを眺めていると、小鳥の脳には人間とはことなる3次元空間情報処理回路が組み込まれているのではないか、と思ってしまう。人間はおそらく2.5次元ぐらいの空間情報処理をしているのではないか。2次元のスタックとして3次元を捉えているのである。
例を挙げれば東京の都心空間。地下、地表、ビルの中、と極めて複雑な3次元空間であるが、地下道を歩いているときに通りすがりの見知らぬ人にとあるビルの場所を聞かれたとする。そのビルが斜め上にあることを私が知っているので説明しようとする。すると、説明する側もされる側も、この地下道をもうすこし先に行って、右に折れ、最初の階段を上がって道路にでたら左に行ってください、といった2次元スタックな説明を期待している。 あっちです、とそのビルと現地点を結ぶ直線に従い、斜め上の天井を指差したらそれがまさに3次元的な説明であり正しいのだが、おおかた狂人だと思われる。二次元スタックな説明が複雑になってしまう時はそのほうがわかりやすいのではないか、と思うことがあるが、実際上その3次元ベクトルは地下道を右に左にゆくうちに混乱してしまって迷うことになるだろう。
ヨーロッパの人間に、書道を見せて教えることがある。といっても私自身はとてつもないマンガ字なので手本になるような字はかけない。見せると感心されるが、単なる外人パワーにすぎない。のであるが、書道セットは所持しているので、見せてくれといわれたら、俺下手なんだけどといいわけしながらも、わはは、おまえにゃできんだろう、といいながらデモンストレーションすることになる。じゃあ、やってみろよ、と得意げにヨーロッパ人に筆を手渡して書かせる。すぐに気がつくのが、筆さばきには3次元的な腕の運動が必要である、ということだ。止め、払いなど、筆を少しだけ持ち上げたり浮かせたりする動きが、平面をなぞることに加えて結果に重大な差をもたらす。ベタベタとした筆跡をながめて、これではあかん、いいか、3次元的に動かさないと立体的な書にならんのである、と説明するうちに、なるほど、書は3次元の投影である、ということをいまさらのように発見し、なるほどー、と教えるのも忘れて感動してしまう。逆方向から考えると、私は書を眺めるときに無意識にそこに書き手の3次元の運動を再構成している。ちょうど影絵の芝居を眺めるようなもので、投影図から3次元を再構成しているのだ。このときの無意識の働きが人間の3次元認識能力なのではないか。すなわち、3次元そのものを生のまま認識しているのではなく、二次元スタックとして再構成しているのである。だからなんとなく、2.5次元、と名づけてみた。
こどものころ遊んだジャングルジムを思い出すと、3次元的なグリッドの中を上下左右に自由に動き回る不思議な感覚に興奮したのを思い出す。あのまま続けていればいまごろ戦闘機乗りも真っ青の3次元認識能力を発達させることができたかもしれない。