マナーの転倒

ケータイの車内利用について考える
http://wiredvision.jp/blog/kogure/200802/200802121100.html

文化によってマナーが違うのはあたりまえのことなのだが、上のようなケータイのマナーに加えて喫煙のマナーがある。フランスやドイツでもカフェやバーで喫煙することが昨年夏から今年にかけて法律で禁じられ始めたが、その結果、喫煙者はタバコを吸うときに席を中座してドアから外に出て路上で吸う。気の利いたバーならば、ドアのよこに座席と灰皿がおいてありそこで吸うし、さらにありがたいバーではストーブがおいてある。もっとすごいのは、電熱シートのソファにストーブ、毛布。結局外で飲んでいるということになったりする。ドイツで”ベルリン的なバー”とよく俗称される若者がやっているものすごく汚いバーなぞは存亡の危機で、なぜかといえば酔っ払ってトラッシュな気分になり床に吸殻捨て放題というのが売りだからなのだが、こうしたバーはもはやありえない。喫煙者はバーを捨て、街に出ることになったのである。とあるバーなぞ、この禁煙法に抗議して閉店してしまった(タバコの煙がもうもうが売りのバーは経営がなりたたないという見込みもあるだろう。さっさと売ったほうが賢い)。習慣というのはおそろしいもので、数ヶ月もたったら私なぞは喫煙するとなると自動的に席を立って失敬、などといいつつ外にでるようになった。
おもしろいのが、日本ではどうもこれがほぼ逆なことである。「喫煙→外にででる」という一連の所作がなんとなく体にしみついてしまった私はレストランやバーなぞで飯を食って飲んでいる途中に失敬、などといいつつ思わず外に出てしまう。とある日東京で、家族と鮨屋で食っているときにこれをやったら、ちょうどゴタゴタした話をしていたので、私が激怒したのかと思った家族の一人が(席を蹴ったとでも思ったのか)、まあ、そんな不機嫌にならないで、と外までわざわざやってきたので、いや、喫煙しているだけなんだけど、と説明するのに少々困惑した。さらに困ったことに東京の路上は、「路上喫煙禁止」なるペイントがしてある街が多い。実際に下手すれば罰金もとられる。かくなる状況においては、喫煙可能なカフェなりバーなりで吸うことになる。欧州の人に「東京では路上ではすえないけど、バーとかでは吸える。路上ですえないから、バーに退避」とか説明すると、彼らにとっては転倒したその状況に、へえ、と興味をもたれることが多い。欧州人の感覚では、外なんだから煙こもらないし別にいいじゃないか、ということになる。
日本の路上喫煙が不可能な場所などの裏道で、ちょっと建物によりそったり凹みに入って(正確には敷地内に入っているということの主張ないしパフォーマンスなのだと思うが)タバコを吸っている人達をみるにつけ、空間っていうよりもテリトリーの問題なのだな、とか思ったりする。あるいは公共空間といったときに日本では第一義的に「路上」なのかな、と思ったりする。建物の敷地はより公共性が薄いし、店という空間はより私的だ。パブではないのである。欧州の公共空間は、内部空間のカテゴリー。こうした転倒がいかなる理由なのか私にはよくわからないが、身体感覚の外延のしかた、まあ、文化の差なんだなと私は思っている。
なお、ついでなんでドイツの列車内のケータイ。ケータイ使用を控えてください、という車両が特別にあるのだけど、かかってきたら平気で話しているよなあ。ただ、日本の満員電車の事情を考えるとあの混雑でみんながケータイで喋っていたら大変なことになるよなあ、と思ったりする。でもケータイよりもはるかにうるさくて迷惑だと私が思うのは昔からいわれているけど、車内アナウンスだ。

プロトコルが存在しない所にプロトコルを確立するには、マナーが必要である。だが、すでに確立しているプロトコルとマナーが同時に崩壊していく時代に生まれたとしたら、どちらを優先して守るべきかははっきりしている。
プロトコルを守っていけばマナーが低下しても秩序は保たれる見込みがあるが、プロトコルが崩壊したら、マナーの有無はほとんど無意味になる。プロトコルを守るべきだ。
罵倒から生まれる公共性
http://d.hatena.ne.jp/essa/20080212/p1