昨夜保土ヶ谷バイパスを夜の9時ごろ運転していた。制限速度は時速80キロなのだが、時速80キロで走っている車はほぼ皆無であり、110キロ程度の速度が標準であった。中にはおそらく130キロと思われる速度で一番右の追い越し車線を走っていく車が何台もあった。制限速度よりも少々速く運転するのはどこの国でも同じだと思うのだが、これほどの制限速度の無視を行うのはフランスぐらいかな、と思った。フランスの場合には法律は破ってナンボ、という文化だからと私は了解するが(法律があるとチャレンジするわけですな)、日本の場合はタテマエとしては法律があり、ホンネとしてはまあ、法律は法律ですな、という考え方なのだと私は推察する。つまり、道路標識として立っている制限速度の多寡にほとんど意味はない、というか警察がいつでも車を停止させることができる、運転者を補導することが可能である、ということ以外に意味があるのだろうか、と思ったりする。もちろん、時速130キロが速度の出しすぎているという認識は80キロの制限速度の元で生じるわけなのだけれど、それにしてもこの乖離ははなはだ大きい。あるいは法律がそこにある、という単に抽象的なシンボルとして制限速度80キロの看板は立っている、と認識すればよいのだろうか。とはいえ、これはつまり上で述べたように警察がいつでもあなたを捕まえることができるというメッセージに他ならない。結局私が感じるのは、時速80キロという制限速度の数字が実にナンセンスである、ということである。

その昔、言文一致運動という文学上の出来事があった。書き言葉と喋り言葉を一致させようとした文学運動であったと私は認識しているのだが、法律と生活を一致させる運動がこの国の文化には必要なのではないか思ったりする。あまりに乖離すると、法から合意が霧散し、なぜ法を守るのか心底わからなくなるだろう。

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赤ん坊をつれて日本をうろうろするのは初めてなので、ずいぶんと発見があった。「バリアフリー」コンシャスになって街を眺めると、障害者にくらしやすい環境は老人にも赤ん坊にもくらしやすい環境だ、ということがわかる。東京近辺ではバリアフリーになっている駅やビルなどがかなり多いのだが、それでも私鉄の小さな駅などにいくと、どーんと鎮座する長い階段のまえで乳母車を押す手をとめて、うらめしく階段をながめてしまう。富山と新潟に大旅行もした。富山ではある老夫婦の家に宿泊したのだが、風呂場が老人向けになっていて、赤ん坊を風呂にいれるのにこれほど楽な風呂は初めてだ、と思った。新潟の駅はひどかった。駅ビルにエスカレーターがないのである。発見した迂回路は駅と陸橋で接続されている東横インのエレベーターを利用する、という方法であったが、これも別に説明がついているわけではない。改札を入った中にはエレベータがあるらしいが、JRの駅員は使わせてくれなかった。駅ビルの一階にあるおみやげ酒屋のおばちゃんに乳母車をとめて「エレベーターはないんですか」ときいたら、えー、ととても困って知らない、といっていた。知らない、というのはないというのが申し訳ないから知らないということなのか、ほんとうに知らないのか私にはうかがい知ることができなかった。

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何度も言うが、脳死は人の死ではない。時速80キロという有名無実を放置する環境で死を数字で定義できるものだろうか。