「である」と「べき」について。

...はシンタックスの問題ではある。でももう少し個人の話として考えてみる。実証は誰のためにするのか。自分のためである。実験していて最後まで納得しないのは結局自分だ。他人を説得するのはとても簡単。自分を説得するのはムズカシイ。だから実験をする。かくして説得されてしまった自分のなかで「べき」が発生するのは副次的な結果であって、でもこの「べき」を常に転覆させるのが、これまた実証「である」なのであった。ここに実証a→規範A→実証a'→規範A'・・・なる非平衡ダイナミクスが個人の中で発生する。ヘーゲルのいう「運動」。でも終わりはない。これが社会というレベルでも起こればよいのだが、物忘れのひどい人間社会というシステムは、ダイナミクスにならず、規範に収束する。この怠惰を隠蔽するかのように「信じろ」と連呼しはじめる、あるいは信じてしまう。

成田エクスプレスの車窓から眺める東京周辺の沿線に立ち並ぶ小さな家々、その規範のなさに私はいつも日本を感じる。でもその一軒一軒は所有者にとっての規範なのだ。長期住宅ローンという過負荷に安寧をもとめる人間の気持ち、わからないでもない。他に信じられるものなど、なかなかないのだから。

きっかけリンク。

id:svnseeds:20040630#p1 似非相対主義者と市場原理主義否定論者
id:svnseeds:20040706#p1 似非相対主義の話
id:jouno:20040706#1089116531
id:jouno:20040706#1089068635
id:hizzz:20040708 人厚無脳