前回のコメント欄から。

インターフェースとしての論理、などなど。

言語の論理依存性の強さ(例えば格や性の扱いの厳密さ)と、その言語を母語とした集団が異文化に触れた/を吸収した度合いというのは関係するんじゃないかと僕は勝手に思ってたりして。
id:svnseeds

異文化接触頻度と言語の論理性が比例しているってことだろうか。それはどうかなあ。もうすこし説明があるといいんだけど。先日私が書いた話は、ジャングルブックな歩きをする人間に「庭園を歩いてください」って懇願しているのだが、どうもうまくいかない、ということでした。論理という世界を共有しようとしているのに破綻している、っていうことなんだよな。だから異文化に対するインターフェースとして論理は本当に有効なのか、ということにはならんだろうか。で、その続き

習得のしやすさから言えば、論理依存性が強い方が良いのだけれども、何故それが弱い言語があるのか、もしくは弱くなったのか、は非常に興味深いと思う。

論理は叙述の手段であって本質ではない、ということを前回書きながら私は思っていて、というのも言語によってその叙述効率に差があるならば、文化の特質を反映した手段である、ということなわけで、論理依存性が強いほうがかえって特殊なのではないだろうか・・・などと思っていたら、id:jounoさんが

「語りえないことについては沈黙しなければならない」という引用を必然性もなくしている人を見るとそのひとへの評価がぼくのなかでかなり下がる。言語への不信というのは日本の思想的伝統においてはむしろ通俗的な主流派に属する。すくなくとも「論考」でWが、「語りえないこと」としてどういうものを考えていたか、そして、彼が少なくとも語りえないことは「示し」うるし、生きられ、おそらくは部分的には思考されもすると考えていたということも踏まえてほしい。 W的な意味での語りえないこととは、イメージを成立させる働きはそれ自体はイメージではない、というような存在論的な問題領域、「世界がどうあるかではなく、世界があることが神秘」という話にかかわるんで、「いわくいいがたし」みたいな悟りきった坊主みたいな諦念と結びついて引用されがちなのは非常にいやな感じだ。
id:jouno:20040821

と書いているのを見つけた。上の主題であるヴィトゲンシュタインの一節は、まさにドイツ語的な論理構造で文章をしたためて(書物のタイトルがそもそも「論理哲学論考」だ)その帰結として出てくる一文なわけです。だからそこだけ抜き出すのはネットワークからノードだけ取り出して鑑賞するみたいな意味のないことをしている、ということなのだが、より普通な受け止め方は、そのノードを眺めて「悟りきった坊主」だね、という方なわけです。なにやら禅問答、問いに対して問いで答える世界。で、この一文は受け止められて、なにやらありがたいオフダとして放置される。この受け止め方が妥当かどうかということではなく、オフダよりも論理という手段のほうが実は特殊、ということなのではないか、と私は考えるのだった。ましてやid:hizzzさんが指摘するように

言語の論理依存性の強弱は、〈個〉のスタンスの幅の取り方が、縦(=唯一の我)か、横(=われわれの中の我)かってことなんでしょうか

なのだとしたら、文化コードに過ぎない、と考えたくなる。その昔ラテン語が欧州の学者業界でツールとして使われたのと同じように、論理、といいうツールがあるってことに過ぎないのではないだろうか。だとしたら異文化インターフェースとしての論理ってそんなにいいものなのだろうか。
以上はジャングルと庭園の間の話だが、論理を駆使している”庭園”業界内では、そのインターフェースの効率はどうなのか。id:Ririkaさんがコメントに引用した

「… 大陸哲学者は、彼らの文化的位置についての諸制約を把握できずに、仲間内の言語を話す。たとえば、ハイデガーデリダは偉大な哲学者であるが、英語で彼らのように書くことにはまったく何の利点もない。その結果は、せいぜいのところ当惑するほどオリジナリティーを欠くか、悪くすると理解不可能になる。」

や、id:Soredaさんの

ヨーロッパ(英仏でしょうが)語話者が英語で書いたものを英語圏の人間がうっとおしがってる

などを眺めていると、「哲学はドイツ語でしかできない」と言ったハイデッガーに対する反発(いや、そのまま認めているということか)か、なんて風にも読めるけれど、双方が同じことを主張しているのを思うと、論理が各言語の文化的特殊性に依存している様子がうかがえるわけで、これまたインターフェースとしての限界が内部にもあることを示唆しているように思えてしまう。

翻訳の困難などなど
id:Soredaさん

そういう大変そうな翻訳の場合は、英(独でもなんでも)を知る日本語つまりソースネイティブを間に挟んでそこで一回アップしてターゲット語ネイティブに仕上げてもらう。

ナルホドー。日本語の大元の著者が翻訳を考えて書いてくれる、と期待していたところがあると思うのです。それがどうもだめな場合には、確かにその方法は効率が良さそうですね。しかも今回のように文化ギャップをそのまま翻訳ギャップとミックスしてガチンコ、ということも避けられる。なにしろ、知人は翻訳の業務をいわばボランティアでやっているのでプロではありません。こうしたテクニックはあらかじめもっと知っておくとよいのだろうなあ。今度喋ったときに伝えておきます。そしてむろん、apoさん@id:MANGAMEGAMONDOがいうように編集者すなわち

主導権を握った人は、このプロジェクトの目的のために、その人の責任において文章にいかなる朱でも躊躇なく入れるべきで、(芸術作品でない限り)文句を言わせてはいけません。ある意味、独裁してもいい。むしろ失敗のリスクをすべてかぶって独裁すべきです。

に同意します。今回の知人の場合は明確にしすぎたら日本人建築家が本来主張したい点が文化ギャップの間に失われてしまうのではないか、という配慮があり、だから私にわざわざ電話して、そこでなにが失われるのか確認したかった、ということだと思うのですが、書いたようにそれは単に記述のテクニックの問題なのだ、と私は思うので明確さ優先でいいのだと思っています。
インテリ同士だと大変、というのは本当にそうです。ましてやid:sujakuがいうように、"むしろわかりにくさをこそ、ミスティフィケーションとして、尊んでいないだろうか?"というような日本側の価値観まであり、更にid:fenestraeさんがいうように"基本的スタイルで学校でこってりしぼられる経験がない日本の学生"がその基本スタイルを名人芸風に崩した文を模倣するものの、基本がそもそもないので破滅的な文章になるという、ヘタウマならぬヘタヘタが"再生産フェーズに入っていたりする"中ではなにを尊重してなにを切り捨てるのか、というのはとてもややこしいことになっている、と思います。間に入るインタープリターにはとても高度な理解力が要求されることになる。文化的差異を尊重しようという配慮が、実は単にしょぼい内容でしかなかったという裏切りと破綻が繰り返される前に、「わかりやすい文章を書くのが一番難しく価値がある」という意識がもっと広まればいいのになあ、と私は本当に思います。