映写と射影

阿部和重シンセミア」に引き続き「インディヴィジュアル・プロジェクション」を読んだ。遡行。

イー・フー・トゥアンという「現象学的地理学」なる分野の泰斗(というか始祖である)がいる。ウィスコンシン大学の先生だ。私がよく憶えているのは、「空間」と「場所」を定義した一節である。よく憶えている、といいながらも文章を憶えているわけではないので、困ったものだが、たぶん次のような例として憶えている。まず空間とはなにか。あなたが建ったばかりのマンションの一室をたまたま訪れる。家具も何もない、まっさらの部屋。これが空間である。そのままその一室を立ち去れば、それは空間のままでしかないかもしれない。しかし、あなたが湯沸し機を持ち込み、お茶を沸かす。床に座ってお茶をすする。このときに、先ほど空間と呼んだなにがしかの対象は場所、となっている。あなたがお茶を飲んだ、ということでそこに意味が生じ、場所となったのである。場所なるものは、かくして生じる。

渋谷には人間が多すぎる。だから渋谷における「場所」は、実に複雑怪奇な様相となる。たとえば渋谷のあるカフェでコーヒーを飲んでいたとする。あなたがそこでコーヒーを飲んだから、その席は場所になる。そのテーブル、その椅子、あなたが座っていることが、意味をもたげ、場所がたち現れるのだ。カフェを去って、翌日またそのカフェを訪れる。同じ時間に。そうするとそこにはあなたではなく誰か別の人間が座って、コーヒーを飲んでいる。似たような格好をしているかもしれない。いや、まったく違うかもしれないが、その同じ場所で同じようにコーヒーを飲んでいることに違いがない。

人間が多すぎることで、空間的には同一の地点において、凄まじい勢いで「場所」が集積していくことになる。個々の視点から見ればそれは固有の場所だ -でも裏返してみたら?場所がオーバーロードされている。その空間的な一地点において、人間がどんどん入れかわるのだ。すなわち、重積的な場所なのである。もはや個人はその場所に対してある役割を果たしているに過ぎない。その空間的な地点に存在するという、役割を演じることになる。こうして重積化し、役割によって個が去勢された場所に私はあえて名前をつける。役割の場所だから、「役所」。

同一の地点に場所が重積すると、場所という特権化がデフレを起こす。重積した場所の数を分母、空間的な地点、1を分子として考えればいい。場所の特権化は渋谷において、凄絶なデフレ状態だ。分母があまりにでかい。だから人間が地べたにこぞって座るようになった。地べたは処女性の高い場所、まだ分母がそれほど肥大化していない。だから処女地開拓、場所の重積化に対抗するために、地べたに座りこむ人間が続出する。そうこうしているうちに近い将来地べたの分母値がさらに肥大したらどうなるのか。天井からぶら下がったりするようになるかもしれない。実際私は、大阪キタのとあるバーで試した。で、当然だが追い出された。特権化がインフレを起こしたのだ。それは目障り、ともいう。今の私だったら、天井からぶらさがる男に激怒する。でも場所の特権化を目指して刃物を振り回したりするよりはよっぽどいいではないか。自画自賛はともあれ、「役所」は誰にとってもいやな所なのだ。自分がそこにいる意味が小さくなってしまうから。

酔っ払ってコンビニに入ると、自分の所作の自動性に少々おどろいてしまう。たまにしか日本にいない私でさえ所作が自動的なのだ。すなわち、コンビニに入って私はおもむろに奥の方に向かって歩く。そこにはかならず冷たい飲み物がある。確信である。首尾よく私は冷蔵庫の透明な扉を開けて、300ML入りのウーロン茶を取り出し、レジにフラフラと向かう。私はその一連の動きをほとんど記憶していない。たぶん、酔っ払いの多くが私と同じようにこのコンビニに入り、奥に向かって歩き、ウーロン茶を買って出て行っただろう。場所の重積化がここでも起きている。だったら、コンビニの外で地べたにでも座り込むしかないではないか。重積化へのささやかな抵抗。でもいまや地べたさえも重積化しつつある。

インディヴィジュアル・プロジェクション」の主人公のオヌマが、イノウエと連絡をとることが出来ないので錯乱し、渋谷を駆け抜けてイノウエのマンションの一室に至る場面。オヌマの錯乱はますます深まる。マンションのイノウエの住処、ドアの外から電話をかけるが、だれも出る様子がない。強迫観念に駆られながら、イノウエの家の鍵をピッキングする。家の中に入り込むや否や、突然、オヌマはそこが自分の家であるような気がし始める。「もしかしたらオレはイノウエだったのかもしれない」、と自らを疑い始め、まもなく「イノウエなんてそもそもいなかったのである」、という結論に至るのだ。この結論は再び覆される(ようだ)が、まあ、それはどうでもいい。重要なのは、作品を通じてテーマとなっているのは、場所の重積性であるから。「役所」がテーマなのである。ああ、やっぱり。私もそんな幻影を見たことがある。オヌマほど狂いはしなかったけれど。

長かった学生時代ゆえ、下宿する学生の姿はさんざん目にしてきた。自分もしていた。ワンルームマンションなるものがあたりまえに存在するようになった時代だったので、そうした空間を私はたくさん目にしてきた。上記主人公のオヌマではないが、その均一さに私はいつも驚嘆していた。型どうり、なのである。長細い空間、小さな玄関を入って右か左にユニットバストイレ。反対側に小さなキッチン。テレビは均質な情報をどこにいても流しつづけている。CDの内容や量、本棚の背表紙を少し入れ替えたら、個人が入れ替わっても空間の移動に気がつかないかもしれない。やがて自分がどこにいるのかわからなくなる。

これはカフェにおける重積化とは少々異なる。カフェにおける重積化は時間的な重積化だった。時間軸に関する射影。ワンルームマンションの重積化は空間的な重積化である。空間軸に関する射影。いずれにしろ、そこにあなたがいる必然性がないという、場所の役所化だ。かくなる四面楚歌の状況において、唯一、その場所にいるあなたがあなたであることを保障していたのは有線でつながれた電話だった。電話はあなただけにかかってくる。オヌマがかけたのは、イノウエの家の電話だった。でもその最後の頼みの綱もやがて去勢される。ケータイが出現したのだ。もはやその場所にいるあなたがあなたであることを保障する、なにものも存在しない。

そんなわけで、読み終わって思いついたのは、このタイトル、「インディヴィジュアル・プロジェクション」が映画のフィルムの一コマ一コマを指しているのではないか、ということだ。プロジェクション、と聞いて私が即座に思い出したのは映写機である。あるいは映写、のこと。インディビジュアル・プロジェクションだとしたら、一コマ一コマの映写を指している。フィルムとして記録される世界は動いている。この動く世界を一コマ一コマにバラす。フィルムを映写機から取り出して、眺めればいい。同じような景色が、極小量の変化で次々に映っている。少しずつかわる風景、人物のポーズ。すこしだけ違うが、ほとんど同じ。すなわち場所の重積性、「役所」の解体図譜がそこにあるのである。たぶんオヌマがしていたように、フィルムの半ば3コマだけ、こっそり別人のフレームと入れ替えても誰も気がつきはしない。

でもプロジェクションという言葉にはまだ他の意味がある。数学では射影だ。時間軸と空間軸を射影した重積化のなれの果て。縦に串刺しされて、ついでに横からも串刺しだ。かくして小説の結末にいたり、インディヴィジュアル・プロジェクションという言葉は存在しえぬ個人として形容矛盾の絶壁に到達し、矛盾を孕んだまま宙吊りとなる。