重なり合うコミュニティ

一人の人間がさまざまな大きさと範囲のコミュニティに属するのはあたりまえの話だと私は思う。職場、家庭、スポーツクラブ、趣味の会合、飲み屋の常連、地域の子供会、PTA、神社仏閣の信者コミュニティ、ゲームセンター、ネット。コミュニティを人は選択する。空手コミュがいやになってロッククライミングコミュに移るかもしれない。家庭がいやで離婚するかもしれない。地元が窮屈なんで引っ越すかもしれない。かくしてコミュニティの選択は自由である。しかし、このコミュニティを選んだから他のコミュニティを放棄する、という簡単な話ではない。スポーツクラブを移動したからといって、家庭を捨てるわけではないし、逆に家庭を捨てたからといってスポーツクラブを放棄するわけではないだろう。ひとりの人間は通常複数のコミュニティに属している。コミュニティか孤立か、という狭い選択肢ではないのである。
さて、以下は湯浅さんならびに貧困から人を救おうとしている人達に対する、上の項で紹介した記事とはまた少々別の角度からの批判である。新たなコミュニティを創造するといった湯浅さんの案は、コミュニケーション技術に欠けている人間を取り込むことは難しい、したがってもっとドライな公的システムのほうがこうしたコミュニケーション技術に劣る人間を救うことが可能ではないか、という内容である。

とくに「連帯と共生」という聞こえの良い代物が実はコミュニケーションスキルという立派な「才能」を前提としなければ成り立たないのではないのか?という疑問点には深く同意するところがある。
(中略)
三丁目の夕日」現象に見られる共同体的社会への憧憬というのはなぜか日本の「左右」メディアが呉越同舟しているようなところがある。そのような過去の共同体社会が理想であるかのように感じられるのは人間の記憶バイアスから来る偏りであり、現実にはそんなもんじゃないということは少し冷静に考えればわかりそうなものだ。
(中略)
「連帯と共生」論者の持ち出す「新たなコミュニティ社会」への参加のためにもやはりコミュニケーション能力はデフォルトのものとして要求される。さらに付け加えると、そのようなコミュニティでは異質な思想傾向を持つ人間は排除されてしまう可能性もある。その意味でも公的サービスの方が優れていて公平さが備わっていると思えるのだが。
「市民」「共生」幻想の危うさ
http://d.hatena.ne.jp/sunafukin99/20080501/1209595779

契約社会をみつめなおせ、ということでなるほどなという意見なのだが、湯浅さんの実践活動をいろいろ眺めてみたあとでこの主張を読むと、誤解があることがわかる。すなわち、湯浅さんがなしているのは次のようなことなのだ。コミュニケーションスキルに問題があるゆえに、公的サービスから脱落ないし排除されてしまった人々、その人達が集えるようなコミュニティを作って待機しているのである。ここでいうコミュニケーションスキルとは、たとえば生活保護申請のため役所にいってみるが、役人に「あなたは対象外です」といわれて素直に帰ってきて生活に困窮してしまうような人々である。あるいは親族・友人といった人間関係インフラが存在していないために保証人をたてられず、アパートの部屋を借りることができないためホームレスになってしまう人間を助け、保証人として借家を仲介するといった活動だ。すなわち、コミュニケーションスキルをギリギリまで前提としないことでこれらの人々の役に立っている活動なのである。だとしたら、湯浅氏よりも”公的サービスの方が優れていて公平さが備わっている”という評価は明らかに転倒している*1。”公的サービスの方が優れていて公平さが備わる予定である”というのならばわからないこともないが、この予定は上の項で述べた、ガン患者よりもガン研究に予算を回しましょう、のように私にはきこえる。
なお、「コミュニティ」に相当する話は以下の部分が該当するだろう。上の「格差ではなく貧困の議論を」(下)24ページにから。

(1)生計を支えるための生活防衛を行いながら、かつ(2)それによって孤立させられることなく、同時に互助的なネットワークを築くこと。それは、拡大しつつづける私的な市場原理に対して公共的空間を対置することでもある。経験や境遇を共有する諸個人の私的な集まりが公共空間だなどと言うのは奇妙に聞こえるかもしれない。しかし、市場の論理があらゆる領域で貫徹しつつあるかに見える現在、そこに異なる空間を創出することは複数性に価値を置く公共的行為というべきである。(1)と(2)をつうじて貧困領域を可視化・顕在化させるという方向性を持つ諸活動には、たとえ勇ましいスローガンを掲げていなかったとしても、市場原理の拡大に歯止めをかけ、社会の公共性を担保する社会運動的価値がある。
(24ページ)

さらに公的サービスか、コミュニティか、という二択の単純な話ではないという点にも言及しよう。最初に書いたような通常の意味で重なり合っているコミュニティにさらに新たなコミュニティを重ならせる(複数性に価値を置く公共的行為)、ということが湯浅さんの狙いなのである。しかしながら

sunafukin99 2008/05/03 19:51
ただ最も大事なマクロの運営がうまくいかないからといって政府の責任を放棄し、個人や共同体に丸投げするというあり方が実は問題であって、日本の「連帯や共生」派の人たちがそのへんを自覚しているのかどうか?そこに落とし穴がないかという問題意識はあっていいと思います。
http://d.hatena.ne.jp/sunafukin99/20080501/1209595779#c1209811872

このコメントから察するに、公的サービスを諦めて新たにコミュニティを作れと湯浅さんは主張・活動している、とsunafukin99さんは誤解していると私は思う*2。湯浅さんは上の項で引用したように”政策的ビジョンを展開すること”はしないが、ミクロな政府の責任は放棄していない。ガン研究は行わないが治療はする。このことは下にリンクする湯浅さんの報告を読んでも明白だ。北九州市での生活保護申請における行政当局者による妨害の現場のリアルな対応ぶりが湯浅さん自身の経験(申請同伴者)として細かく報告されている。放棄しているどころか、行政の窓口のサボタージュのごとき対応をダイレクトに(すなわち行政当局者の面前で)批判している。現実のこうした公的サービスの欠陥を批判しつつ、一方でその犠牲となっている人々をリアルタイムでサポートしている。コミュニティ、公的サービスを重ね合わせる形で活動しているのだ。公的サービスか、コミュニティかという二択であればそもそも生活保護の申請などしないだろう。なお、北九州市でこうした行政による妨害が特にひどい歴史的な経緯に関しても洞察が加えられている。湯浅さんの実践活動を「三丁目の夕日」といった印象のみで批判していると思われるsunafukin99さんには一読を薦める。

“極北”の地、北九州市保護行政が示す“福祉の未来” 湯浅誠 (PDF) 『賃金と社会保障』第1437号(2007年3月上旬号)

コミュニティは複数の階層、広さで複数重なり合いながら存在するのがベストで、個性と好みでそのいくつかを選べるのがいちばんよいと思う。”契約”中心のドライなのがよければそれはそれでよい。村上春樹の小説にでてくる主人公とかってドライだよなあ、そういえば。でもそれだと生きにくい人もまたいるのである。中上健次の小説にでてくる人間は春樹のワールドで生きにくいだろう。たとえば、”家庭”にしたって親子供二人的な団地構成だけではなく、いろいろなモデルがあるほうが生きやすい。その複雑さを捨てて単純化したいわば線形の社会を作るべしという主張・ベクトルにはそのいずれにも私は反対である。

*1:リンク先のブックマークコメントにある"公のセイフティーネットも草の根セイフティーネットも両方あってよく、二律背反ではない。"(morimori_68さん)や"共生vs行政? 二者択一ではありえないのになんでゼロサムゲームみたいなことになってるのかわからない。政策実現のために集めるアテンションがゼロサムだから?"(rnaさん)といった意見は、そもそもの湯浅さんの主張を眺めると氷解する。

*2:むろん、マクロな政策の失敗を見過ごすべきなどとは私は思っていない。