ウィリアム・フォーサイス
二日目はフランクフルトまでいって、ウィリアム・フォーサイスのダンスカンパニー、新作。ドレスデンに本拠地をうつしてしまったけれど、毎年フランクフルトで公演を打ってくれる。場所はボッケンハイマー倉庫。開始時間ギリギリにドアが開き、倉庫の中にはいるとだだっ広くうすぐらい空間の真中に正方形の舞台が据えられていて、何枚もの大型LCDモニターが雑然と置かれている。床には何本ものケーブルがうねうねとのたうちまわり、ビデオカメラがさまざまな角度で設置されている。その間を三人のダンサーが飛ぶような勢いで踊っている。あちらこちらにベニアの仕切りがあるので、ダンサーの姿は時々見えなくなる、かと思うと、ビデオカメラにキャプチャーされた姿が、まったく別の方角のモニターに一瞬だけうつる。
カメラーは自動的にパン・ズームするように設定されており、時には私の顔もうつしだされ、ぼけっとしている自分の姿をみてどきっとする。次の瞬間にはすでに画面はパンして、その手前にいるダンサーの足をうつしだしたりする。ダンサー達は互いに短い言葉をやりとりしているのだが、よくわからない。ききとれただけでは「これでいいかな」「もっと情報を」「まだまだ」などなど。ダンサー達は時々ビデオカメラのリモコンらしきコントローラーを手にして、自分を映し出したカメラを調整したりする。制御の強迫か、とか思ったり、ああ、情報社会とはすなわち自分を映し出す鏡である、情報は一方向ではないなどと勝手なことを思っているうちに、係りの人が耳元でささやく。別の場所に移動してください、とのことである。
踊りつづけるダンサー達をあとに、係員に付き従ってほかの観客達とぞろぞろと倉庫の中を歩く。緞帳の間をうねうねとあるくと、小さな正方形の空間。対角線の片側の三角形には、二人のダンサー。もう片方に観客席。私は前から二列目に座った。一畳ほどの大きさの分厚いフェルトをかぶったダンサーは、硬くてやわらかいその材質を慈しむかのように、というかおぼれるようにまとってかがみこみ、顔は見えぬまま片足を上げたり下げたり旋回させたりする。もう一人のダンサーはくろいTシャツに黒い覆面。時々思い出したかのように蜂がとんでいるときのような”ブーン、ブーン”という唸り声をあげ、壁の傍らにひたすらつったっている。ブーン、ブーンというあまり心地よくない音に、フェルト男は反応しているようないないような。と思っているうちに観客は全員座席を確保。暗転。この後一時間ほど続く短い踊りのセッションは、すべてがこうした少々不快な音(たてつづけのくしゃみ、咳、苦悶にのたうちまわる男、星をひたすらぶつぶつとめでる女の声、脅しゴネるような唸り声をなんども上げる男、声になるかならぬかの悲鳴、乱暴に壁を叩く音 − ベニアなので穴があいてたー 、これってへんでしょ、これってへんでしょ、とデビッド・リンチの映画にでてくる狂った女のようにゆっくりと一本調子でくりかえされる言葉)と踊りのコラボレーション。そこに関係があるのかないのか、みてとれぬけれど隣り合わせの繊細で浮遊するような見事な運動と不快な音がリンクする。踊りはあるいはその乱暴な音の数々に震えているようにもスルーしているようにも見える。あるのかないのかわからないような、でもそこにある関係性。最後のダンサーはアラビア語でなにごとかをぼそぼそつぶやく。うってかわって優しく、消え入るようなつぶやき。すこしずつすこしずつあとずさり、奥の角の暗闇の中に溶けるように消えていった。見事な照明、見事な幕だった。
ユーチューブにいくつかビデオがある。
フォーサイス自身のソロ。天才、としかいいようがない。ジャンプをするわけではないのだが、重力が消える瞬間がなんどもある。回転の速さ、なめらかさ。
フォーサイスのダンスカンパニーのメンバーが踊った、イッセイ・ミヤケのファッションショー。東京。