国家のリスクと個人のリスク

在日アメリカ人に向けて放射線のリスクを説明する短いセッションが2011年4月7日に東京で開かれた。米国大使館のウェブサイトにビデオへのリンクが貼られておりYoutubeで4つのセッションを眺めることができる。そのうち、放射線の健康リスクに関するセッションを私も見てみた。米国の国立がんセンターのSteve Simonさんによる、セミナー形式。

http://www.youtube.com/watch?v=ESyWIbcI_qE

セッションの内容の概略は以下のようなものだ。

車の運転やスポーツのリスク、タバコのリスク。タバコを一ヶ月に一本吸うと身体にわるいか?一日に一本だったら?あるいは一日一箱だったら?ものは程度による。放射能のリスクも同じようなことである。

放射線はどんなに微弱なレベルであっても人体に影響を与える。この影響が健康を害する結果(特に癌)にいたるかどうかは確率的に決まる。この確率は、放射線レベルに比例して大きくなる。すなわち、被曝する放射線の量が大きければ大きいほど、発ガンの確率も高くなる。広島/長崎の被曝者の12万人のうち1万7500人が癌になった。うち、被曝が理由で癌になったのは850人であったという解析結果がある。このうち、100mSv以下の被曝だったグループでは被曝による発ガンは<2%という解析結果になった。こうした研究から我々は今回の被曝のリスクを推定することができる。

目下の東京において計測された放射線率は、どのぐらいのリスクをもたらすだろうか。まず知ってほしいのは、人間の25%がなにもしなくてもいずれ癌になるということ(background level、と呼ぶ)。放射線被曝を原因とする発ガンのケースは、これに上乗せされることになる。聞いた話では東京での福島原発事故による被曝は0.1mSvあるいはそれ以下の被曝だそうだ。この被曝から推定できる発ガンのリスクは0.0008%。したがって、東京にいる人が将来癌になるリスクは25.0008%になった、ということだ。

この被曝による発ガンのリスクは、そもそも癌を発症するリスク25%に比較して、大変少ない。個人的には科学的に無視できるレベルである、と私はいいたい。とはいえ、それを無視するかどうか判断するのは結局あなたでしかない。

話にきくよりもずいぶん軽微な広島長崎の発ガン被害である。またサイモン博士の一般向けの総説[1]などを読んでみると、過去の大気圏中核実験によって拡散降下した放射性物質による発ガンにかんして、より深刻な調査結果を報告したアーネスト・スターングラスや瀬木三雄[2]よりもその影響が低く報告されている。サイモン博士は厳しい統計水準を設けている、ということだろう。

こうした厳しい水準をもちいているものの、サイモン博士は放射線被曝はどんなに低い値であっても人体に影響すると説明する。これは「ある線量以下では人体に影響がない」とする「閾値のある直線モデル」に対し、「閾値なしの直線モデル」とよばれ、2006年に発表された低線量被曝に関する米国の公的な報告書[3]が採用している立場である。一般的な認識としてよいであろう[9]。

であればなぜ日本の政府や保安院は「ただちに健康には影響がない」と言うのだろうか。サイモン博士が「結局自分で判断することだ」というようなリスクをめぐる論法は、日本の「健康には影響がない」論者たちもおそらく共有しているものと思われる。日本の原子力安全委員会放射線防護の観点から閾値なしの直線モデルの採用が妥当、と文書のなかで述べているのである[4]。結局「ただちに健康には影響がない」は次のようなことなのだろう。「自分で判断しないでください、私たちが判断して差し上げます」。リスクをみつもり、「影響がない」と判断してくれているわけである。

これははたしてありがたい公的サービスなのだろうか。問題は、被曝により生じるリスクは車の運転、スポーツ、タバコと質的にことなることだ。車の運転リスクを回避したければなるだけ車に乗らないで自転車に乗ればよい。あるいはタバコをすわなければよい。しかし、放射線物質のフォルアウトの圏内半径数百キロに生活する人間にとってそのリスクを回避することは簡単なことではない。生活の場を去るリスク、あるいは、周囲が退避していないときに自分だけが疎開することの世間体リスク。そのことで職を失う失職リスク。これらの拮抗するいくつものリスクの微妙なバランスのありかたは、一人一人ことなるだろう。したがってそれぞれの状況に応じてリスクを計上し、それぞれが自分で判断すべき事柄のはずである。

かくなる計上をおこなうためには目下の被曝のリスクは何々パーセントである、と知る必要がある。その上で個々人が自分で判断すべきなのだ。しかしながら、政府はあらかじめ判断済みの結果だけを人々に与えようとする。

この「公的サービス」に対する私の見方はつぎのようなものである。政府は国家のリスクとしてこれを考える。国家全体としてリスクを最適化しようとする。どれだけの人間が被曝によって病気になり早死するか、というリスクは他のさまざまな国家的なリスクとならべて比較し、多大なリスクであれば(極端な例では国民の10%が死ぬ、とか)本質的な問題とするし、少なければそれは捨象すべきリスク、co-lateral damageとして認識される。後者が「ただちに健康に影響はない」ということの本質だ。

この国家的なリスク計算において、個々人の器質的、社会的事情は考慮されない。喜怒哀楽ももちろん換算されない。人はのっぺらぼうの集団として認識される。したがって、「私のリスク」ないしは「私の家族のリスク」を知りたい人は、自分でリスクを計算し、それぞれの状況と価値観に基づいて次の行動を決断する必要がある。極端なことをいえば国家的判断=「健康に影響なし」をそのまま自分のものとして受け入れるのもまたひとつの決断であるといえる。判断をしてくれることをありがたく思う人もいるかもしれない。自分で判断しなくてよい、というのは確かにラクなことである。「降雨確率5パーセント」というかわりに「雨はふらないでしょう」と言ってくれ、ということに似ている。

問題になるのは次の点だ。サイモン博士もビデオで説明しなかった重大な点。日本政府が「ただちに健康には影響がない」と宣言することで切り捨てている点。算出されるリスクは、同じ被曝であっても大人と子供(男と女でも違う)、幼児、乳児ではことなる。若いほどリスクは大きくなる。「健康に影響はない」というその内実において、子供達、とりわけ乳児や胎児に対するより大きなリスクの負荷は、大人のより軽いリスクと平均された値となって捨象されているのである。しかも、子供や赤ん坊は、自分のリスクを理解し、判断して次の行動に移すことができない。結局、「健康に影響がない」というバイナリー付与の公的サービスによって大きな実害を受ける程度は歳の若い順になってしまうのである。

サイモン博士が著者の一人であるAmerican Scientistの総説(2006, [1])において、年齢によるリスクの違いを説明する図を示しているので下に掲載しておこうと思う。横軸は年齢、縦軸が放射線被曝による生涯リスクの片対数プロットである。全ての癌、白血病甲状腺癌のリスクが男女別にそれぞれプロットされている。年齢が小さいほど、リスクが高いといことがよくわかるだろう。念のため、縦軸は対数である。

結局、今私がいいたいのは次のようなことである。放射線はその線量がいかなる低い値であっても人体に影響する。そして被曝による健康リスクは年齢が小さいほど高い。「直ちに健康に影響はない」やら、日本政府の避難計画をみているとこうしたことを考慮しているようには思えない。なによりも幼い子供たち、妊婦を優先して被曝から遠ざけるべきであるが、これまでのところ、日本政府がそうした懸念を表明し、行動にうつしているのを私はみていない。

(書きかけ)



[1] Simon SL, Bouville A, Land C. Fallout from Nuclear Weapons Tests and Cancer Risk. American Scientist 2006 January-February;94(1):48-57. [PDF]

[2] 放射線と健康 アーネスト・スターングラス 2006年青森市講演記録 [Link] 

[3] Health Risks from Exposure to Low Levels of Ionizing Radiation: BEIR VII Phase 2 [Link]

[4] 原子力安全委員会 (2003) 「討論会「私たちの健康と放射線被ばく--低線量の放射線影響を考える」において寄せられた質問に対する回答について」[PDF]