3月某日

  • 一年前の3月11日、ローマ近郊で講義していて、学生が「日本が大変なことになっている」とラップトップをもってきて、イタリア語のニュースを見せてくれたのだった。日本ではよくあることだ、と答えたものの、帰りの飛行機に乗る頃にその全貌を知って、よくあることではないのを知ったのだった。一年たって、たぶん一番心に残っているのは「逃げない」ということだ。私は人間にとって「選べないもの」はそんなにあるものではない、と思っていたが、実は多くの人間にとってそのウェートがかなりあるらしいのである。私が「それは選ぶことができる」といったところで意味はあまりない。
    • この選択不能の感覚は不自由さにほかならないが、不自由な方が(という選択をしているわけではないが)心地がよい、という人がいることもまた事実。
  • 発生生物学者 片桐千明
    • 日本語で発生のことを喋る予定あり、なので日本語の用語がわからず片桐先生の教科書を引っ張り出してきた。偉大なる教科書。
  • 早川由紀夫の火山ブログ 板橋2月4日
    • 秀逸なまとめ。
  • "Japan's children of the tsunami " BBC program in full. First aired 1st March 2012 - YouTube
    • BBCなら吹き替えしそうなものだが、しないのは日本の視聴者を意識しているからじゃないのかなあ。それとも最近は吹き替えしなくなりつつあるのだろーか。先日の"inside the meltdown"にしても吹き替えじゃなかった。生の日本語に字幕。
  • 雨の東京に名古屋、大阪経由で来着。コスタリカ人と築地で鮨を食うというミッションなわけだが、日曜って市場、しまってんじゃないのかな。
    • 日本社会に一番相応しいのはアナキズム。しかも体制としての。それが唯一模範的にありうるのは今の日本でしかないと目前の秩序と状況の混沌を目の前にしてしみじみ。
    • 築地でマグロのセリを眺めた。見学会場ではないヒミツの場所で見物。雰囲気の荒っぽさが賭場のようだった。ボタン雪が降っていたのもまたそれらしくてよかった。
    • 彼女と遅い昼食。 某墓所にて。
    • 東京でミュージシャン @TomohikoKakuta 氏経営の新宿ゴールデン街のHIP( @GOLDENguyHIP )という店にたまたま入った。
      • 昨年7月オープン、常連とかに尻込みすることなく入れるゴールデン街の気楽なお店。
    • 岩波「科学」3月号を眺めていて、この本が「近代科学の第三期、経済成長と科学」を指摘した某エッセイで引用されていて印象に残った。電子版が出ていたら買ってみようかしらん。関係ないが、「科学」電子版を希望。
    • 羽田空港の変貌ぶりに少々オドロイタ。
    • 帰りの飛行機で「プロメテウスの罠」を読んでいたのだが、一年前の情報流通の滞りぶり、米国側の焦燥と、ある時点での諦め、米国人への撤退勧告、独自行動展開の話がでてきた。このあたりの転換点は実感としてよく覚えている。
  • 天皇の政治的な発言が公共放送でカットされても、あんまり違和感ないよな。そもそもそのような存在なのであって、問題にすべきなのは、そのような存在であること、という点なのである。日本の戦後のねじれのまさに象徴的な存在である。
  • 「決意の相互脅迫」。明確な言葉だ。サラリーマン社会や研究者業界でもみかける、アレである。そんなものではなく真に重要なのはダラダラした不まじめな抵抗だ。
    • 日本の労働環境は男中心の「命をかけて研究」スタイルがスタンダード。それを考えるとおそらく世界初の女性教官しか雇わない研究所・大学があってもいいんじゃないかと思う。
  • 東京新聞:福島原発事故 その時私は 3・11
    • 「あなたの持ってる携帯電話を左手に持って、右手でボタンを押して相手の人にかけてください」と言うと、動きだした。
      • 危機において漫画みたいな話が本当に起こる。
  • ジェネリアファームから来客。最近ニューロサイエンスの若手を集めていて凄いことになっている。まー、若い人集めて好きなようにさせたら、面白いもの出てこないはずがない。
  • お茶は静岡のやぶきたの深蒸しを子供の頃から飲んでいるので、いまだに自分でも注文してドイツで毎日飲んでいる。100Bq/Kgだったらやめないなー。とはいえ、昨年来、いつもよろこんでくれるフランスの友人にはプレゼントできなくなった。
  • 春になったので研究所のまわりの農場が肥料まきをしている。すごいにおい。牛糞と馬糞の入り交じったような。南ドイツの春である。ケンプテンとかのドイツ・ディープサウスに行くとにおいはもっと凄いことになる。
  • 橋下市長「辞めてしまえ」…女性教諭起立せず
    • この方のこれまでの行動パターンからみて、「辞めてしまえ」って人にいうための理由を作っているだけだと思う。まあ、国旗国歌というのはそのような方のためにも大変便利であるという事例。
  • 忘却からの帰還: STSについて、もう少しだらだらと...
    • 科学批判が反科学と添い寝しやすいというのは事実だと思う。だから科学批判者たるには、泥臭い科学研究の現場で悶え苦しむ経験も要件になっていくのではないか、と思う。オーバードクターで苦しんでいる人とかは、科学を批判的に眺める上で適格だと思うから、科学の教育課程にSTSがもっと導入されたらいいのにな、と思う。
  • 吉本隆明逝く。終風翁の思い入れのあるコメントとか笠井潔さんの批判他モロモロ。罵倒から感謝の言葉までその幅の広さにあらためて吉本隆明っておもしろい人なんだなと思った。その吉本さんの原発擁護に対する島薗さんの批判をながめていて、吉本さんには人間理性に対する絶対的信頼があるんだな、と思った。ロゴス絶対主義。クラッシックな左翼はおそらくそうあるしかないのだと思うが、昔と違って世界はとじてしまった。ロゴス絶対主義は資本主義の駆動が無限の差異を前提としていることと照応している。しかし無限という前提は地球という空間の閉鎖性があたりまえのこととなってから再考が必要になっているのだけど、それを思考するための根源的なツールはなんかいまだに見えない。環境主義的な後退に陥りがち。
  • 車のトランクの鍵が壊れて開かなくなった。困ったことに中には生の鶏肉が二キロ入っており、二日たった今すでににおいが車内に充満。修理工場にもっていったら、笑われた。穴あけるしかないそうである。
    • 修理工場でいろいろやったが鍵の壊れたトランクはどうしても開けられないそうである。肉がー。放っておいたら発酵して勝手に爆発、トランクがぱかっと開きそうな気もする。
    • 輸出ディーラーもやっているビデオアーチストのフィンランド人の友達と遥か彼方のフライブルグまでいって車(10年落ち)を買ってきた。レバノン人の店で、「ミカ・ハッキネン」だの「山本左近」だのまあ、外国人というとF1なのであった。なんか久しぶりにロードムービーみたいな感じでよかった。
    • フェンダーが凹んでいるこれまでの車、高く売れる、とフィンランド人の友人がいうので、まー、頼むわ、ということになった。その前の日産は、「エンジンがぶっ壊れた」と雑談したイラン人タクシー運転手が100ユーロで買ってくれて、アフリカに転売された。先方でニコイチとか。
  • 日本統計学会75周年記念出版
    • 太っ腹。まー、だけど税金で研究された内容が多いのだろうから、タダでアクセスできるようにするのが本来の姿ではある。
  • 朝日新聞:プロメテウスの罠 観測中止令
    • 気象学会が所属学会員の原発事故・汚染に関する発言を抑えたのはけっこうなニュースだったけど、ネイチャーに採用がほぼ確定した論文を潰したのはしらんかった。あと、この文科省山口茜なる人物。忘れんぞ。
  • 原発事故に対する対応をめぐって科学者が分断されたようにみえるけど、科学判断が分断しているわけじゃないと思うんだよな。政治的な姿勢が分断に反映している。理由は単に科学的議論だけで蹴りがつく話ではないから。一方で「我こそは科学」と主張したりしているわけで。となると、「これは政治的課題である」と科学者が自認して議論をすすめることになるわけであるが、自称中立の連呼のまえで、こりゃ無理だな、と思ったりする。 原子力村民の匿名投稿者がいてもあんんまり驚かない。それっぽい匿名の人はたくさんいる。まさに魑魅魍魎のネット。ただ、件のひとに「騙された」と思った人たちはおおい怒ればいいと思う。素人を語っていた、というのは事実みたいだし。それより、この件の扱いが党派的になっているほうが気になる。
  • 燃料取り出しが始まる30年後、今の日本を方向づけているエスタブリッシュメントの方々はすでに死んでいる。これ以上の無責任てあるのかね。事故責任者と被害者の時間軸に沿ったこのギャップは、原発がそもそも非民主的存在であることの好例。まー、だけど年金システムとか眺めても思うけど、国家ってネズミ講と同じ発想で設計されていて、これはもう無理なんだよな。境界条件が考慮されていない。だから世界が転換期にあるときには、官僚的なシステムや既得権益層は逆に反社会的存在となるのである。
  • 自炊の最大の敵は形式だわな。いわゆる「食事」という型に囚われていると時間はかかるわ金はかかるわで大変なことになる。自由な発想と形式の破壊が必要になる。これを体感しはじめると、逆に自分が解放される気分さえ味わうことができる。平民作「豆腐ぶっかけ丼」はこの自炊要諦の縮図。
  • フーコーの生権力論
    • ”権力というものは、我々が考えるほど
      • (1)狭い範囲の出来事ではない
      • (2)容易に統御されるものではない、しかし、かと言って
      • (3)人間をがんじがらめにする絶望的なものでもない”
  • バイオポリティクスとは何か
    • "集団…を対象とする科学なり知識なり権力なり…統計学国勢調査や公衆衛生学…人間を多数扱うような学や権力のあり方をビオポリティックと…呼びましょうというのがフーコー的な意味での生権力、あるいは生政治"
  • フーコーの生政治、ないしは生権力という概念装置は、たとえば、放射性物質汚染に関するリスクコミュニケーションの政治性を考察する上でど真ん中だろう、と私は思っているけど、これは「0.5%のガンなんて問題ではない、どうせ人は死ぬ」と考える人にとってはたぶん前提ではない。
    • 生権力はたとえば警察権力のような目に見える暴力性ではない。たとえば疫学者が「ここからここまでだったら無視できる」と判断した瞬間に、人の生死に確率的な線が引かれる。「無視できる」と判断することの権力性はデスクトップの極めて非暴力的な、事務的な環境で起きる。だから見えにくい。生権力・政治は「人を生きさせ」「人を死の中に廃棄する」と述べたのはだれだったか覚えていないが、まあ、そのようなことなのである。先に引用したように、これはマスと個人という軸の上に立ち現れる。上にリンクした対談を読んで、バイオポリティクスにもドイツ流、フランス流、イタリア流があると初めて知った。私は全般にいっしょくたに考えていたけど、なにやら腑分けがはっきりしてきて分かりやすくなった。
    • 人は自分の意志と工夫と知恵で生きている部分がほとんどだ、と誰しも思っていると思うのだが、生権力・政治という概念に基づく分析を知るといかに自分が実は「生かされているだけ」であるか、「死の中に廃棄されていないだけ」を知って青ざめ、自分の中に浸潤している生権力を意識せざるをえなくなる。私の場合は例えば日本のコンビニにいって弁当の棚の前にたつとなぜか、でたな生政治、と思ったりしてしまうのだが(これは少々飛躍している)、一方で自炊の素晴らしさを先日投稿したりしていたのも実は飛躍しつつ関連しているのですよ、といまさらながら自分で気がついてみたりする。
    • 権力性についての高校の公民の教科書的な話。市民社会において権力はあくまでも人々が権力の担当者たる人物に委託しているものであって、権力を保持する人間に元から付随するものではない。権力は市民社会においてその保持と承認というパワーバランスの元で合意がなりたつ。理念からすれば権力は悪ではない。契約である。例えば、我々は警察官に権力を与えているのであって、警察官が元から権力をもっている(お上)、ということではない。すなわち権力の存在可否の判断基準は人々の信託という正統性である。実は王政にしても正統性は民主主義的な手続きとは異なる手段で行われているというのは歴史を眺めれば知ることができるだろう。人々は権力を担当する人物を選択してきたのである。翻って「0.5%のガンはとるにたらない」(数字は凡例である)という判断、すなわち生権力・政治概念が析出するところの権力性、その判断を行っている人間に人々はその判断を行うための権力を委託しているだろうか?あるいはそもそも、それが生権力・政治であるという重大な点が明示化されているか?
    • それが生権力・政治であることが明示されていないからこそ、「見捨てられた」(これは福島において顕著だ)という感覚をぬぐい去ることができないのではないか?それは降って湧いたようになにごとかを我々におしつけるが、正統性があまりに不透明なのである。警察官の場合、自らの権力を意識することは実にたやすい。腰に拳銃をぶら下げているし、いざとなれば己の判断(法に準拠していたとして)にしたがって人を拘束することができるからである。あるいはより生權力に近いのは臨床医である。臨床医が人の生命を左右するという点で権力性を保持している自覚はあるだろうし、逆に人は医者を選ぶことができる(e.g. 藪医者)。一方、疫学・放射線防護の研究者は、自らの生權力・政治の行使、その権力性に対してどうやらとても鈍感らしい。
    • なぜ鈍感なのか。それは、「科学的判断である」として自らをその権力性から遊離させ、優しき忠告者、ないしは傍観者(客観性)としての立ち位置を獲得することが容易であるというのが第一点。官僚組織(ないしは学術組織)に埋没することで無名性を獲得することが可能であるというのが第二点。終始、人口(マス)というスケールで結論を出す学問であるからして、生権力が前提となり見えなくなるという点が第三点。そしてそもそも生政治・権力という概念が日本理系研究者において一般に欠落しているのでは、というのが第四点。生政治・権力という概念の一般性の評価は本来難しいはずだが、この一年の議論はその欠落を浮き彫りにしている、と私は思っている。一方、科学技術論あるいは生命論、医療社会論の学徒にとっては、これはもう常識というか、教科書レベルの話であろう。
    • 一部科学者と一部科学技術論者の間の議論は、自らの権力性を無意識に行使する権力者と、その権力性を批判する人間の間の共通基盤の欠落、いわば議論のすれちがいの典型、雑駁にいえば「お前は権力」「いや、科学です」という実にわかりやすい押し問答と化している。共通基盤の欠落に関しては、研究者個々人を責められない。専門蛸壺化が深刻なのだから、こうしたことが起きるのは当然ではある。しかしながら、議論の発展にはその欠落を意識する必要がある。もちろん、「エア御用」問題もこの批判の射程に収めることができるはずである。
  • 「問題の科学化=脱政治化というポリティクス」 なるほどな言い回し(©平川氏)。で、今思えば以前nofrills氏からはてなブックマーク経由でこの点に関して「曝すほどの話か?」という問いかけがあったのだが、ズルズル答えずにきてしまっている。
  • 三権分立というと立法・司法・行政の三つを意味するんだけど、今の状況を鑑みるに立法・司法・行政はすでに一体化した「国家」グループになっている。また官僚とか公務員ってのもひとつの「事務」グループ。となると国家・事務・民衆の三権分立を模索するほうがいいんじゃないかなあ。国家運営にしても事務にしても、それが自己目的化してしまっているから、それをポジティブに転用して、彼らは彼らでその生き方を成就すればいいけど、権力のチェック&バランスは三つ巴で行う、というような感じ。代議制の崩壊というのはかねてよりいわれていることだけど、民主主義が前提とする権力関係がそのままになっていて、新しいシステムとして例えばネグリとかの「マルチチュードリゾーム」やら柄谷行人の「くじびき」とかいろいろあったわけだが、「事務」という世界を看過している。「事務」をスルーするような考え方としてはたとえば情報システムの中間搾取最適化的なネット型市民社会とか議論する人もいるけど、中国の宦官から、カフカの「城」を経て存在する事務世界は排除不可能というか、現代的な形のチェック&バランスでやるしかないと思うんだよな。とまあ、事務の人たちと喋るたびに思う「違う世界に来てしまった」アウェイな感覚をほぼ唯一の拠り所としたワタクシの意見でありました。
    • 事務世界のことを書いたのは、牧野さんの「科学と退廃」に触発されてのことである。事務ってあくまでも現実的作業だと思われているけど、社会学的な批判があってもいいと思う。私が社会思想史なり、社会学者だったら「事務の思想史」とかやりたくなるだろうなあ。「事務の思想史」、おそらく未開拓である。攻め方も豊富。例えばドイツのLeitzや日本のコクヨの社史、製品史に基づく詳細な分析とか。「ファシズムと文具」なんて新書で売れそうである。で、フーコー並の巨大なマイルストーンを楔し「事務ー権力」概念で知の最前線に躍り出るのである(笑)
  • ドイツZDF フクシマのうそ
    • 警告が繰り返されても(地震津波原発事故だって警告されていた)、破滅的事態はまだ起きていない、まだ起きていない、と必死で導火線を横目で眺め日常に駆り立てられるという姿勢が日本なんだなあ、と私は思う。
  • 無珍先生を彼の友達の誕生日会に。夏時間に変わったことに気がつかず遅刻。野外の山の中、完全に遅刻。
  • Scientists and journalists need different things from science… or do they?
  • フーコーの穴―統計学と統治の現代: 重田 園江
  • 『社会は防衛しなければならない』(ミシェル・フーコー)
  • 「連帯」の話というと11月にバルセロナでフランス人の友達と午前二時頃の路上で「連帯とはなにか」というやりとりをしたんだけど、社会保険みたいなものなんだよな、という話。欧州は何世紀も戦乱でむちゃくちゃだったからそうなったのかなあ、とか。まあ、普通の人の知恵、サバイバル術なわけだ。
  • 想像だけだけど、暗黙の了解で事故はなかったこと、放射線物質もなかったことにしている組織とかコミュニティとかあるんだろうな。口にしたら汚れる、場や和を乱す、という雰囲気だけで。このとても不気味な部分はなんか日本に根源的なのである。I don't even want to talk about itという言い方はあるが、「口にするのも汚らわしい」という言い方は日本に特有かもしらんな。
  • ”科学者個別の責任じゃない”、かー。科学というシステムの責任(= responsibility、応答を担当するということだ)は科学者以外にありえない。科学の構造的な問題を自ら問うほどの知性はもはや我々科学者にはない、というのならわかるけどね。そうかもしれない。
  • 汚染レベルの推定
  • ね式(世界の読み方): チェルノビルと私;その後
    • 私も多くのドイツ人他各国の人から、「チェルノブイリと私」を聞いた。で、私は「福島と私」を語ることになる。郡山の駅のオレンジの扉の食堂はいまもあるのかな。
  • ね式(世界の読み方): 福島とサクリファイス:ル・モンド記事翻訳
    • 犠牲という感性は責められない。問題はそれにかこつけてやりたい放題のエスタブリッシュメント。世界からは丸見え。
  • 独ZDFハーノ記者へのインタビュー
    • 「今回の災害は、四つ。地震、津波、原発事故、そして信頼の喪失の四つです」
    • 「東日本大震災は4つの災害をもたらした」は、ほんと的を得ているよ。4つめは「信頼を失うという災害」。ジジェクがよくする例え話、歩いているネコが崖っぷちからそのまま空中を歩いて、はたと下になにもないのに気がついて次の瞬間に落下、というアレ。
  • 科学社会学と反科学主義
    • 市民運動に嫌悪感を抱く科学者はこう考えるだろうなあ。その意味で集約的、参考にすべし。私はこの記事を読んで、日本のSTSはその批判対象を原子力ムラの構造的問題に焦点を絞ったらいいんじゃないかと思った。科学と政治と官僚主義とコロニアルな国家主義が核融合しているのが原子力村であり、歴史的には日本の科学が工学中心の輸入文化(富国強兵・殖産興業)であることの捻れもスコープに入るだろう。世界的にみても科学技術論の対象として絶好のモデルケースであることは確か。記事の著者(定年退職した物理学者とのことである)の他の記事もちょっと読んでみたんだけど「プロ市民」とかストレートに使っていて、この言葉も人口に膾炙したものだなあ、と思った。
    • 突然だが、丸山真男以来、宮台真司経由の亜インテリ論を思い出した。亜インテリの定義「知識や教養を持つのに、社会や文化の批判という使命を果たさずに既存体制維持に協力する、知的には二流以下の階層」。宮台真司は5年ぐらい前の亜インテリ論に関連して、「田吾作」という単語を多用してたが、今でも使ってんのかな。/農民バカにするな、と反論した人はいなかった気がする。
  • 日本語が滅ぶとか、ぐたぐた言っている暇あったら著作権廃止運動したほうが早い。オープンソースの時代にキャッチアップしない言語はすべからく滅亡する。科学という言語もしかり。
  • 「科学立国ニッポンの終焉」をシミュレート
    • 社会への科学の組み込まれ方を批判的に検討しているのがSTS、それに対して一部科学者が「反科学」というあさっての応答をするのに並行して、この記事にあるような後戻り不能状態が進行している。研究室単位で見ると、予算が一定額以上になると成果は横ばい、という調査結果がある。今の日本の科学予算の配分の仕方(戦略的集中投資)だと総論文数が減るのは当然。薄く広く、が正しいありかた。少なくても自由に使えるカネが貰えれば研究者はよろこんで自分の研究するから。
  • 命日。3年、あっという間だった。無珍先生も3歳だ。彼女がおりにふれ私に注意したことなど、いまの私を彼女がみたらどう思うんだろうな、と考えたりする。