日本語のほろび

とある知り合いに先日翻訳をたのまれた。あるとても特殊な酵母種の実験法に関するプロトコールが日本語にしか存在しないとのことで、すでに退官された元教授のかたから送られたそのプロトコールを英語に翻訳してくれと頼まれたのである。お安い御用で、ということではじめてみたら、途中でとても困ってしまった。このプロトコールの遂行にはとても特殊な器具を自作する必要がある。その作成法の一ステップにはたとえば「こころもちここをかくじかしかじか」とか書かれている。この「こころもち」というのをどう説明したらいいのかとわたしはとても悩んだのだった。

少しだけ、というにはなんか気が入っていない感じだしなあ、などと天井を眺めてしまったのである。実際自分がその器具を作成することになるのであれば、手を動かしながら「こころもち」ここをこうする、などと考えつつ作業をすすめるのだが、「こころもち」は私の体に入ってしまっている言葉だからその意味を考える必要がないわけで、あえてそれを特定の動作を指示することばとして翻訳しようとすると、どうにもこうにも難しい。かくしてプロトコールというのは母語の感性が面目躍如する場面であるということを再認識したりしたのであった。こうした普通は研究室のそとにでることのないようなプロトコールが日本語で記述されなくなる、というのは考えにくい。かくして「こころもち」という言葉の肉体性は維持されていくのだろう。それがまさに言語、なのではないか。それが国語である必然性はまったく、いや、まったくもってないのである。