バカの身振り

問題は、情報社会の発展により「言論の自由市場」が淘汰の場としては失効しているということ。東氏が島宇宙という(用語自体は宮台真司に由来。ただし、東氏においては若者文化論ではなくこれが全面化した状態が想定されている)のはそういう状態。それが、東氏における世界認識であり、かつ、ポストモダニズム系リベラルとして擁護する社会の姿でもある。

歴史認識問題じゃないんだよね
http://blog.sakichan.org/ja/2008/12/15/not_issues_on_the_interpretation_of_hist

”「言論の自由市場」が淘汰の場としては失効している”のかもしらんが選択の場としては有効。選択のしかたにそれぞれの個人の”実感”が大きなファクターになるので、これが本当の”大きな物語”の終焉、島宇宙の始まり、ってなことになるわけだけど、これまたよくできたお話ですな、と私は思う。参照されている宮台氏の<まったり革命>から島宇宙へ、をうけついぐ現在の東氏の世界はこうなる!という頭の中は実にわかりやすい。なぜならば、<まったり革命>といいつつ実は革命でもなんでもない<まったり現状肯定>であり、その一環として「キミたちはまったりと日常を生き抜く術をこころえている」などと援助交際を煽った(そして多くの若い女性をそのことで傷つける結果となった)社会学者ならぬ社会運動家、宮台氏の90年代の運動と、”動物化するポストモダン”の00年代の東氏の現状肯定運動が実にうまく重なるからである。その運動はいずれも「バカはバカのままでいろ、それでいいんだ、賢くなるのは私の理論に基づけばダメな社会をもたらす」なるエリーティズムである。「南京大虐殺があったかなかったか、従軍慰安婦がいたかいなかったかなんてどうでもいい」という演技は、「この知識人っていわれてしまう(笑)僕でさえバカ」という露悪的な身振りにすぎない。なぜならば、そうやってバカのふりをした次の瞬間に天下国家を論じ、戦後60年丸山真男いらい知識人は人々を啓蒙しようとしたけれどダメだったから戦略を変える必要があるのである、バカがバカのままでもよいようなシアワセな世の中を作りましょう(「僕もバカです」とつけくわえることを忘れない)、と遥か高みにたった場所から大衆を教導しようとしているからである(思想地図1の鼎談参照)。ちなみに、嫌韓なんていっていないで、ナンパにでもいくか、というのが正しい動物のあり方なのだそうである。もちろん、歴史認識問題などに手を出すのは間違った動物。そうした考え方に対して「永遠に嘘をついてくれ」という視点から批判を加えるtoled氏はまったくもって正しい。そして、「歴史問題がどっちでもいいのはデリダを通過した私だから」と説明する東氏に肉薄しようとするのもまた正しい。デリダと「永遠に嘘をついてくれ」の関係は?デリダトゥルーマン・ショーのような世界をよしとしたのだろうか。合意形成はもはやありえない、だから永遠の嘘、でいいのか。あるいは、実はデリダポストモダニズムはもはや身振りにすぎず、それとは関係のないところで成立している国家論なのではないか。
同上続き。

この環境において、Apeman氏が「スルーせずに批判すること」を繰り返しても、社会の中で影響される人はいるかもしれないが、俯瞰してみれば、大勢に影響はない。島宇宙的な共存関係を壊すようなものではない。だから、「スルーせずに批判すること」についていえば、それはご自由にというほかない(し、それはそれでガンガンやればいいんじゃないのかな)が、それのどこが東氏批判になるのか、ということになる。東氏のビジョンを根本的に批判するということであれば、直截には私的に許し難い言論を公的に潰す実力公使となるほかなく、「市民的合意」によって国家権力を呼び出すのであればそれは法規制であるし、合意によらないのであれば、テロリズムとなる。

歴史問題はどうでもよくないと思っているから(海外で日本の戦争責任問題の話題になったときに、あなたは自分なりの意見を述べることができるだろうか「どっちでもいい」って本気で応えられるか?)東氏の「どっちでもいい」理論背景を検証しているわけであって、その結果上に書いたような端的に現状肯定主義、操作的コンフォーミストということが少なくとも私にはうかがえた。私はこの点で東氏の考え方に根本的に批判的でありたいと考えている。しかし。そのことがなぜ法規制ないしはテロリズムになるしかない、のはまったく持って不思議な理屈である。