友人からの電話でテレビニュースを見始めた。フセインが大きく口を広げ、若い米兵が唾液の採取をしている場面でストップモーションになっていた。

フセインの経歴と犯罪についてロバート・フィスクがいろいろ書いていた。フセイン圧政下における抑圧の様子などは次のようなものだ。

チグリス川のほとりにあるカシミヤ安全局はどうだろうか。この感じのよい豪壮な建物は一時、1980年代にイランへと追放されたイラン生まれのイラク人が所持していた。狭い芝生や低い植え込みがあるが、各部屋の天井にある三つの大きな鉤や、サッカー選手が飾られた大きな赤い紙が外から人が覗くことができないように窓に貼られていることには、ぱっと見には気がつかないだろう。しかし床の上や、庭や屋根の上にはこの苦痛の場所の書類が散らばっている。その書類は例えばこの拷問センターの長がハシェム・アル・ティクリートだったこと、そしてその副官がラシッド・アル・ナバビーであったことを明らかにしている。

元囚人だったモハメド・アイッシュ・ジャッセームは、いかに彼がアマール・アル・イサウィ隊長に天井から吊り下げられたかを私に説明した。隊長は、ジャッセームが宗教的なダワ党のメンバーだと信じていた。「やつらはこんな風に私を後ろ手に縛り、その縛られた手首を吊り上げて私をぶら下げた。」と彼は私に言った。「やつらは小さな発電機を使って私を天井まで吊り上げ、次に綱を放して私を落下させ、肩の骨を折ろうとした。」

天井の鉤はイサウィ隊長の机のすぐ前にある。私はそれがなにを意味するか理解した。拷問部屋と、書類仕事のためのオフィスは分けられていなかった。拷問部屋がすなわちオフィスだったのだ。男や女が彼の目の上で苦痛に悲鳴を漏らしている時に、イサウィ隊長は書類にサインしたり電話をとったり、ゴミ箱の中身によればタバコを何本も灰にしながら、彼が囚人に求めていた情報を待った。

こいつらは怪物だったのか?そうだ。アメリカ人は彼らをさがしているか?していない。彼らは今、アメリカ人のために働いているか?そうだ、ほとんどそうだろう。そして実際、彼らのうちの一部は元ちんぴらどもの列に連なり、パレスタイン・ホテルの外の順番待ち行列に毎朝並んで、米軍海兵隊の公共事務部に雇われようと希望に燃えているだろう。

バクダットの拷問センターの護衛たちの名前は、床の上に散らばった書類に書いてある。その名前はアーメッド・ハッサン・アラウィ、アキル・シャヒード、ノアマン・アッバスとモハメッド・ファバッドだ。しかしアメリカ人たちはこの事実を見つけ出そうとしなかった。したがって、彼らの元への求職を、アラウィ、シャヒード、アッバス、ファバッドの各氏は歓迎されるだろう。

[Link: Robert Fisk 2003年4月17日Independent 記事]

ただ、こうした圧制・独裁制の源泉には、80年代の中東における反イスラム原理主義の運動家として、フセインアメリカがサポートをしていた、という事実も同時に想起すべきである。「わかりやすい英語運動」で先日表彰された今をときめくドナルド・ラムズフェルド現米国防長官がフセインとにこやかに握手していた時代。もう少し詳しく知りたい方は朝倉さんの今日の記事がオススメ(id:asaku81:20031215)。

80年代には米国におだてられて権力を握り、一転、90年代には米国に悪魔呼ばわりされ、追跡を受け、捕獲されたフセインである。映画に出てくるイタリアマフィア新興勢力の悲運を現実に背負った男が、演歌と共に去ることも切腹することもなく、テレビの前でマヌケにも大口を開けているのだ。これを見ずにいられようか。いや、オレってなんて悪趣味なんだ。ああ。中曽根元首相はかつて「フセインはサムライだ」とおそらく中曽根的に最大級の賛辞を送っていた。中曽根は大口を開けるフセインを見て、武士の情けいずこ、と思ったのかどうか。

などといっているうちに、状況を見渡すと、米国におけるイラク政策に関する支持はあがり、おそらく子ブッシュは神に感謝の祈りを捧げ、ヨーロッパ人は「またターキーと一緒でまがいもんのフセインじゃないの」と冷笑している。小泉首相は「これは戦争ではない」、という次のスローガンを心ひそかに温めはじめたかもしれない。そしてイラクの人々はフセインによる圧制はもう二度とありえない、とそのほとんどが確信にいたる一方で、じゃあなんでオレタチ占領されているわけ?との思いを完全武装の小隊で警戒する街角の連合軍をながめながら、ますますつのらせている。そして、今日は主権移譲日程の提出期限日なのだった。