外界の創造

『ニュース報道の言語論 「実名」と「匿名」』 (Seuさん)の記事は私が先日書いた『匿名について』と重なっている部分がいろいろある。私と少々違うのは次の点。

それに対し、全くもって印象論でしかないのだが、「2ちゃんねる」に集う人びとには、シニカルなマスコミ批判と共存するかたちで、極めてナイーブな素朴実在論のようなものが共有されているように感じる。つまり、マスコミによって歪められてしまった情報の向こうには、誰にとっても自明な「真実」が横たわっているという想定があるのではないだろうか。
でもって、みんなで情報を持ち寄れば、そうした「真実」に到達できるというわけだ。そうした場においては、固有の見方は嫌悪されるために、「コテハン固定ハンドル)」は嫌われる傾向にある。いわば、「客観報道」の亡霊が「2ちゃんねる」を徘徊するのである。

" ネットにこそ真実が隠れている"という根拠のない確信を批判している。そうだなと思う。ネット上には無機質なデータがごろごろ転がっている。それを解釈するのは人間であって、ひどく偏った見解をあたえることも可能なのである。これを上の記事では小阪修平の一文を引用して「空想」としめくくっている。この点は最近みかけた松永さんの記事も指摘していた(と記憶しているけど)。
これはツボをついている。一方で私がこのところ気にしている問題は、「真実かどうか」という点にフォーカスしてしまうと駆動メカニズムが見えにくくなるような気がする。
私が注目したいのは、「XXに雪崩のようにむらがるネット匿名」のXXは真実という題目だろうがなんだろうが、なんでもいいという点である。駆動だけがあり方向性がない。駆動のポテンシャルは”暴露”への権力志向。駆動には増幅作用があり、極端にそちらに傾いていく*1。そうした駆動の一分野に真実一路の名の元に正当化される集中的個人情報の暴露や集団妄想がある。
すこしずれるが、上の記事でイラクにおける日本人人質事件のことが例として挙げられて思い出した。事件が収束した半年後に私がかいた『情報からの逃避行動』という記事に対するid:flapjackさんとid:svnseedsによるコメントが多いに参考になる。

自作自演説を「外界に対するシャットダウン」という視点からみるというのには大賛成です。ただ、これも単にシャットダウンしてるという部分もあるだろうけど、シャットダウンして国内文脈に落としてしまうと何も知らない者同士でも話がつなげやすい、つなげやすいからさらに書き込みが増え(ネタと真実の水準が未分化なまま真実の水準が強まる形で)話が広がっていく、という2ちゃん的コミュニケーションという要素もかなりあったのではないかなあ。もちろん、それは「外界に対するシャットダウン」にますます寄与してしまうわけで、結果は変わらないわけだけれども。
2004年7月10日 『情報からの逃避行動』 コメント欄 flapjack

外界に対するシャットダウン」はつまり「ある情報を処理するにあたって想像力の欠如が原因で誤った結論を導いてしまうこと」なわけだけれども、この「想像力の欠如」を要素分解すると、1.背景となる情報/知識が不足している、2.経験/適用能力/視野の広がりが不足している、の2点になるように思う(ここで、1は情報/知識の絶対的な不足、つまりどうしても現時点では知り得ないことを指しており、経験の不足や視点が狭いことからくる情報/知識の不足は含まないことに注意)。kmiuraは2の点を強調しているけれども、1の点が原因となって「外界に対するシャットダウン」が(見た目上)起こることも大いにあり得るんじゃなかろうかと思った次第。
(中略)
おまけ。この文脈で俯瞰すると、flapjackさんの「2ちゃん的コミュニケーション」は「内側」を「quasi-外界」としてしまう、つまり自閉したもの同士が自閉したままcommunicateすることで本来「内側」だったものが「外界」として機能し始める、ということになるのかな。興味深い。
2004年7月10日 『情報からの逃避行動』 コメント欄 svnseeds

しかもこの想像上の外界の創造*2には、マスメディアも関わっていた。Apemanさんがそのことに触れている。”イラク人質事件」についていえば「ネット世論」(まあこれだって一枚岩ではないけど、とりあえず人質バッシングの流れね)とばっちり歩調をあわせていたマスメディアが存在しますが?ネット世論?@Apes! Not Monkeys! )”。このネットーマスメディアの再帰的な関係性を推定することはネット匿名の人間の間の関係性を証明するのがとてもむずかしいのと同じで、そこにあるのは蓋然性だけである。雰囲気に駆動された(ネット)世論の駆動を目前にしたのははじめてだったけれど、ああ、これか、と思った*3
これまた前の記事になるが、加藤紘一の実家放火犯と右派マスコミの間には暗黙の関係があるのではないか、ということを書いたところ(『日本語による風景、外国語による風景』、および『クレモント氏の記事について。』)、「証明してください」というコメントがあった。雰囲気の醸成と雰囲気による承認は証明のしようがない。でも証明できないからといってそこに今回述べているような駆動を否定することは私にはできない。
先日書いた『戦争をしない国』に関してもflapjackさんやsvnseedsが指摘した構図をあてはめることができる。外部のリアルな情報が足りないだけなのならば、なんとかしたい、と思って書いたのだが、情報の供給量はあまりにも不足しており焼け石に水かな、とも思う。あいかわらずも”国内文脈”におとしやすい形で仮想敵を内側で空想し”外側”への危機感に吹き上がる武装願望は続く。妄想が現実を作る、というのが私が目の前にしている出来事なのだ。

*1:そんなわけで昨日モデル化してみた

*2:イラク人質事件の場合にはこれがきわめて内向した形で現れた。

*3:でもこのところ「空気よめ」みたいなこという人間がこころなしかへってきているような気はする。あくまでも印象でしかないけれど。読めなくてもいいんだ、という人間が増えるのはありがたいことだ。

 除菌できたかな。

ようやくヘリコバクター・ピロリ除菌のための抗生物質パッケージを飲み終えた。薬の量が多いので不調になるかなと覚悟していたのだが、この一週間外出ひかえていたせいか、腹の消化の調子が低下した以外は影響がすくなかった。このあと二週間プロトンポンプ阻害剤を40mg/day飲むことになるが、これは副作用が軽いので普通の生活をするつもり。胃の自覚症状は消えた。50年前は胃潰瘍で人が死んでいたのだと思うとエライ進歩である。

ヒントになりそう。

内田樹さんが赤木智弘さんの「『丸山眞男』をひっぱたきたい」を引用してつづけて次のように言っている。

ここでは「戦争」という強い言葉が使われているが、これを「いじめ」と置き換えても意味は変わらない。「自分は被害者である」という前提から出発する人間が、「すべての人が被害者になる社会」においてフェアネスが実現されるという考えに同意するのはことの条理である。「いじめ」において子どもたちは決して「正義の味方」は到来しないという冷酷な現実を痛感した。子どもたちは「正義」という概念に唾を吐きかけ、自分自身を「邪悪なもの」に塗り替えることによって、「邪悪なもの」への恐怖を打ち消し、「全員が被害者で、かつ全員が加害者」というフェアネスを選んだ。
この手法は今社会全域に蔓延(まんえん)している。憲法改定や核武装を語る政治家たちの心理は「アジア隣国によるイジメ」に、自ら「邪悪な存在」になることで対抗しようとしている「いじめっ子」のそれと酷似している。むろん、真似(まね)をしているのは子どもたちの方なのだが。
意地悪化する社会──神戸女学院大教授・内田 樹

とはいえ、”邪悪”の軸で説明すると、”真実”の軸で説明するのと同じような感じで、正誤、善悪の話になってしまうのだよな。

科学者・技術者連盟

id:sivadさんがもっともな指摘をしている(id:sivad:20070129#p1)。日本には科学者・技術者を代表してロビーイングする団体がない、という点。sivadさんの提言は「理系人の地位向上」にフォーカスしているのだが、そうしたロビーイングをする団体がないのは、歴史的、文化的な背景もあるだろうな、と思う。
欧米を考えると、特に米国ではいまでも科学は思想運動である。旧約聖書の創造紀を学校でおしえる、とか進化論を学校で教えてはいけない、とか主張する原理主義的な人々がそれなりの影響力があるので、科学という世界観の流布は一種の思想運動的な色彩をいまだにおびている。だからロビーイング、なのだ。一方で日本においては似非科学、というカテゴリーはあるものの、世界観の対立にはならない。日本では宗教がとても曖昧な存在であり、世界観の対立があまり現実的ではないということもあるだろう。あえて主張するまでもなく科学・技術、なのである。そこにロビーイングという発想はでてこない。
さらにいえば、歴史的には欧米で科学が発達し、それを技術として輸入したのが日本である、ということもある。輸入したものであるからその体系をどこか無機質なものとしてみてしまう。世界観ではないのだ。そこにある体系の内側で工夫したり、発展させたりするだけで、その体系が生成する、ほろびるという可能性が考慮されないことになる。あるいはそもそも体系の栄枯盛衰などどうでもいい、という日本的な感覚もあるのかもしれない。だからそれを育てる・守るという感覚は”科学的思考の危機”というよりも、即物的に”科学技術立国の可能性・危機”として扱われることになる。
以上、科学と技術という本来まったくことなるカテゴリーを、コンベンショナルな”理系”というひとくくりにして書いた。科学と技術、という二つの異なる思考法がごっちゃになっているところが、上のようなロビーイング団体の欠落の背景にもなっていると思うのでもうすこし丁寧に考えていく必要がある。とはいえ、ひとまず私はsivadさんの意見を支持する。