仕事が終わらなかったので、ボーデン湖畔での空手合宿を切り上げて帰還。キャンプ生活で朝昼晩の稽古の合間にボーデン湖で泳いだり、やはりというか朝まで飲み会。日本の空手協会の合宿では’千本突き’なんてやるんだ、と説明する教官にそりゃ体育学的におかしいとか弟子が意見を挟んで大議論になっているのがドイツっぽくておかしかった。型の練習にしても意味から入る。日の丸をあしらったそろいのジャージ、「鉄騎初段」と大書された車、鏡像でプリントされた「唐手」という文字、妙な日本趣味に囲まれておもしろい日々だった。空手ドイツ代表チームの監督とトレーナーに稽古をつけてもらったわけだが、自分の稽古よりも彼らの動きの速度に圧倒された。人ってこんなに速く動けるんだー、という単純な感動。今回空手仲間といろいろ話していてしったが、我が道場に弟子入りした日本人は私が初なのだそうである。「日本語強化部」作るからそこの部長になれ、との命をうけた。でも教えるのってたかだか「回し蹴り」や「先生に礼」の正しい発音ぐらい。

理念的

理念的に生きるというのは死ぬことを前提にしてしまう部分がある。’思想’が煙たがれるのは結局この点においてではないか。理念的でなければ生きているこの瞬間において死が浮上するのは巡り合わせのわるさ、あるいは’縁起’でしかないからである。しかし理念的に生きる上で死は不可避な一状態として生と並置されることになる。私の頭の中にはフェーズダイアグラムが描かれ、生の状態、死の状態という相が平面状に分たれることになる。生にしても死にしても物質の関係性の別な現れ方にすぎないからだ。あるいはミランクンデラはそれを「不滅」への意志と呼ぶだろうけれど、平たく言えばそれはあたまでっかち、ということになる。まじめすぎるのだ。ある朝実は私は寝ぼけて半分死んでいるのかもしれない。シャワーを浴びて生き返る。生と死のグレーゾーンをゆらゆらと揺れている。
死をもその意味に含めてしまう’思想’を代価するのが生のテクノロジーである。うまく生きること。でも残念ながら目下のテクノロジー、すなわち工学、医学、経済学、法学、いずれもまさに技巧としてしか存在しないのであり、意味を与えない。意味がなくても生きる、というのが本来だろう。でも意味を探してしまうのも人間なのである。作動そのものは意味ある意味としては存在できない。過剰なテクノロジーを前にその意味のなさに絶望する人間に対して「生きることの意味はない」と説いても釈迦に説法、である。その前に’フマジメに生きる’をまず導入しなくてはいけないのだ。
以上足し算引き算した結果残るのは、理念に生きる、ではなく、生きる姿勢、ぐらいかもしれない。

事実誤認

歌舞伎俳優の中村獅童(32)が“最後の軍人”から男の責任を学び取った。フジテレビが13日に放送する終戦60年記念スペシャルドラマ「実録・小野田少尉 遅すぎた帰還」(午後9時)の鹿児島・喜界島ロケがこのほど、公開された。
(中略)
日30度を超える喜界島の高温と湿気、10時間前後のロング撮影も、何のそのだ。獅童は真っ黒に日焼けした顔でエネルギッシュに撮影をこなしていた。「戦争を知らない世代の僕が、実際にあったことを演じられるのは、俳優として、人間としてありがたいことです」。
獅童“最後の軍人”から家族の大切さ学ぶ

日本はイラク侵略戦争に参加しているところです。すなわちあなたは「戦争を知っている世代」。