理念的

理念的に生きるというのは死ぬことを前提にしてしまう部分がある。’思想’が煙たがれるのは結局この点においてではないか。理念的でなければ生きているこの瞬間において死が浮上するのは巡り合わせのわるさ、あるいは’縁起’でしかないからである。しかし理念的に生きる上で死は不可避な一状態として生と並置されることになる。私の頭の中にはフェーズダイアグラムが描かれ、生の状態、死の状態という相が平面状に分たれることになる。生にしても死にしても物質の関係性の別な現れ方にすぎないからだ。あるいはミランクンデラはそれを「不滅」への意志と呼ぶだろうけれど、平たく言えばそれはあたまでっかち、ということになる。まじめすぎるのだ。ある朝実は私は寝ぼけて半分死んでいるのかもしれない。シャワーを浴びて生き返る。生と死のグレーゾーンをゆらゆらと揺れている。
死をもその意味に含めてしまう’思想’を代価するのが生のテクノロジーである。うまく生きること。でも残念ながら目下のテクノロジー、すなわち工学、医学、経済学、法学、いずれもまさに技巧としてしか存在しないのであり、意味を与えない。意味がなくても生きる、というのが本来だろう。でも意味を探してしまうのも人間なのである。作動そのものは意味ある意味としては存在できない。過剰なテクノロジーを前にその意味のなさに絶望する人間に対して「生きることの意味はない」と説いても釈迦に説法、である。その前に’フマジメに生きる’をまず導入しなくてはいけないのだ。
以上足し算引き算した結果残るのは、理念に生きる、ではなく、生きる姿勢、ぐらいかもしれない。