柘榴

無珍先生がはじめて柘榴を食べて、ほおばったその口からつやつやしたルビー色の粒をこぼしながら「メロンとライチの次に好きだ!」と相好を崩している。小学3年生のガキンチョの「おいしい!」と思う心の跳躍は、私なんぞが「おいしい!」と思う心のたぶん100倍ぐらいだ。

時効なので告白。私が子供の頃は柘榴というのは遊んでいる時に喉が乾いてそこいらの棒なんぞで実を叩き落として道に落ちて割れたのを集めてボソボソ食べるものだった。人の家の壁の上からはみ出している柘榴とかである。端的にいって柘榴泥棒。今回はスーパーでみかけて「おおっ」と思って買ったのだったが、なんか、あの道端に座り込んで頬張る柘榴の味も教えてやりたいけど、無理だよなあ。

たまにだけど4月に雪がふる (Sometimes it snows in April)


長い戦いのあと トレイシーが死んだ
あいつの最後の涙を わたしが拭ったすぐあとで


たぶんあいつは まえよりうまくやってる
とり残されたまぬけより ずっとずっとうまく


あいつはたったひとりのともだちだった わたしはトレイシーのせいで泣いた
あんなやつは めったにみかけるもんじゃない
トレイシーのせいで泣いたのは もう一度会いたかったから
でもときどき ほんのときどき 生きるってことだけでないこともある


たまにだけど 4月に雪がふる
たまにだけど すごくやになる ほんとにいやになる
たまにだけど 人生におわりがなければいいのに そう思う
そして人は よいものにはすべて 終りがくるという


春はいつも いちばん好きな季節だった
恋人たちが 雨の中で手をつなぐ季節


春はいまでは トレイシーの涙だけを思い出させる
いつも愛に泣いて 痛みには決して泣かない


あいつはまえに 死ぬのなんか怖くない 力強く言った
死ぬのが怖くない わたしはそれに酔った
ちがう、写真をみつめながら 気がついた
わたしのトレイシーが泣くようには だれも泣けない


たまにだけど 4月に雪がふる
たまにだけど すごくやになる
たまにだけど ほんとにたまにだけど 人生におわりがなければいいのに そう思う
そして人は よいものにはすべて 終りがくるという


よく天国の夢をみる トレイシーがそこにいるって 知っている
だれか別の友達を あいつがみつけたって 知っている
たぶんあいつは四月の雪の すべての答えを みつけただろう
たぶんいつか わたしのトレイシーに また会うことがあるだろう


たまにだけど 4月に雪がふる
たまにだけど すごくやになる ほんとにいやになる
たまにだけど 人生におわりがなければいいのに そう思う
でも人は よいものにはすべて 終りがくるという


よいものにはすべて 終りがくると 人はいう
そして愛は それが過ぎ去らなければ 愛ではない

プリンスが亡くなった。狂ったように好きだった10代後半のころにわたしはすっかりもどってしまい、いろいろな用事をほっぽりだして上の歌詞を訳してしんみりしていた。18歳のころの4月だと思うが、この曲が入っているアルバムをヘビーローテーション(当時はレンタルレコードで借りてきて、カセットテープにダビングだった)していた時に、本当に4月の雪がふって、この曲をリピートしながらぼう然とうっとりと雪景色をながめていた。なにを考えていたのか、もはや思い出せないけど。

この曲はパープルレインで一気にスターになったプリンスが勢いにのって作った次作の映画の曲である。映画自体はみられたものではないという酷評をうけながら赤字興行となったが、サウンドトラックとして作られたそのアルバムは大ヒットした。特にそのうちの一曲、”Kiss”という小気味良い曲は誰でも聴いたことがある一曲だろう。映画はひどくナルシスティックな、なおかつどうしようもないメロドラマで、そこに出てくる主人公がトレイシー(プリンスが演ずるジゴロ)である。「たまにだけど4月に雪がふる」はこのアルバムの最後の曲。演歌のようなベタ加減ギリギリのところで空に上昇していくようなそんな名曲である。今聞いても音に古臭さが感じられないのがすごいなあ、と思う。

2016年の4月にプリンスは亡くなった。4月の雪の答えをたぶん、みつけたのだろう。

死刑について

一人の人間が一人の人間を殺すことは、マンガや大藪春彦の世界を除き、普通は死刑とはいわない。十人が殺す場合はどうだろうか?百人だったら?あるいは千人だったら?日本の場合は一億人である。一億人が一人の人間を殺すことに合意している場合は、一般常識として死刑と呼ぶ。実際、日本では8割が死刑に合意しているので、社会的な合意のもとで殺人がおこなわれることに肯定的なコンセンサスのある社会となっている[1]。

イスラム国」は自称国家である。実体は山賊であり、しかも非常に邪悪な山賊である。宗教がどうか、以前に邪悪であり、人を誘拐しては平気で殺してしまう。で、2015年1月24日には身代金2億ドルを安倍首相に要求したのに72時間以内にまともな返答がないから日本人を一人殺したとのことである[2]。これは彼ら自称国家にとっての死刑である。身の毛もよだつ犯罪である、理屈が邪悪だ、とか国家ではない、といった意見はともかくも、ある一定の人数の人間の合意にもとずく殺人であり、自称国家の行った死刑である。

極めてぶっきらぼうに言えば、どちらも同じことを行っている。死刑の執行を決定する法律あるいは社会の合意も、複雑さと定義の厳密さのレベルに大小の違いはあれど、究極のところ恣意的である。邪悪、とイスラム国に関して私は述べたが、イスラム国に言わせればかつてポンコツだったDNA鑑定に基づく「科学捜査」で死刑がおこなわれ、いまだ無辜の生活者を死刑にしたことが正当であったとしてまかり通る社会[3]、あるいはそうしたいわば盲撃ちに社会が犯す殺人を「人はどうせ死ぬのである」とその他の人々が納得し日常生活をなにごともなかったかのように継続することを優先する社会の方がよっぽど邪悪かもしれない[4]。あるいは「この日本人ころすぞ」と世界に向かっていってみたら日本語で互いに「自己責任でしょ、ね、ね、」といってみたり、大臣が率先して画像が合成らしいと眉をひそめてみたり、コラージュを量産してみたりする日本の社会の善悪の彼岸ぶりにたまげているかもしれない[5]。

「死刑に合意8割」と 「人質の1人殺害との情報」が私の見ていたヘッドラインでは交錯していた。二つの社会のこの意味での相同性、社会が与え、社会が許容する死の軽さに私自身は身震いしたのである。そのようなわけで、ここに書き留める。

[1] http://digital.asahi.com/articles/ASH1Q5F9FH1QUTIL02L.html

 死刑制度に対する内閣府の昨年の世論調査で、「やむを得ない」と容認する人の割合が80・3%だったことがわかった。内閣府が24日、結果を公表した。1994年以降、ほぼ同じ質問で5年ごとに調査し、これまでは一貫して容認する人の割合が増えていたが、初めて減少した。ただし、8割以上の高い水準は維持している。被害者感情への共感などが背景にある。

 調査は昨年11月、全国の20歳以上の男女3千人を対象に面接で実施。有効回答は1826人(60・9%)だった。
 死刑制度の是非については「やむを得ない」が80・3%で、2009年に実施した前回調査の「場合によってはやむを得ない」の85・6%から5・3ポイント減った。これまでは、94年が73・8%、99年が79・3%、04年が81・4%と上昇し続け、前回が最高だった。
 一方で、「廃止すべきだ」は9・7%。前回調査の「どんな場合でも廃止すべきだ」の5・7%から、4・0ポイント増えた。「わからない・一概には言えない」は9・9%だった。

 
[2]  http://mainichi.jp/select/news/20150125k0000m040085000c.html

【カイロ秋山信一】イスラム過激派組織「イスラム国」とみられるグループに拘束された仙台市出身のジャーナリスト、後藤健二さん(47)の新たな映像が24日午後(日本時間24日夜)、インターネット上の動画投稿サイトに公開された。後藤さんは同様に拘束されている千葉市出身の湯川遥菜さん(42)の遺体とみられる写真を持たされ、男性の声で「湯川さんは既に殺害された」と英語で訴えた。内容の信ぴょう性や映像の投稿者の素性は明らかではない。これを受けて菅義偉官房長官は記者会見し「言語道断の許し難い暴挙だ。強く非難する」などと述べた。

[3] http://tamutamu2011.kuronowish.com/iidukajikenn.htm

飯塚事件:31日に元死刑囚の再審可否決定 福岡地裁

 福岡県飯塚市で1992年に女児2人が殺害された「飯塚事件」の再審請求審で、福岡地裁が31日、死刑執行された久間三千年(くま・みちとし)元死刑囚(当時70歳)の再審を開始するかどうかの決定を出す。証拠の一つとなったDNA型鑑定の信用性が最大の争点。再審開始が決まれば死刑執行後では初めてとなるため、地裁の判断に注目が集まっている。
 1審・福岡地裁は、女児の遺体などから採取された犯人の血液のDNA型について、警察庁科学警察研究所による2種の鑑定のうち「MCT118型」の結果から久間元死刑囚と一致すると判断。他の状況証拠と合わせて、死刑を言い渡し、2審・福岡高裁最高裁も支持した。だがMCT118型は冤罪だった足利事件でも使われた手法だった。
 同手法が当時、導入初期でもあったため、弁護団は再審請求で精度が悪く、誤りがあると主張。また、犯人の血液型は久間元死刑囚と同じB型ではなく、AB型などと指摘した。
 弁護団はさらにDNA型の再鑑定で誤りを証明しようとしたが、必要な試料は捜査時に使い切られ残っていなかった。そのため、鑑定に使われたDNA型の写真のネガフィルムを入手。足利事件のDNA型再鑑定に関わった専門家に解析を依頼し「元死刑囚とは異なるDNA型が見つかった」とする鑑定結果を得た。
 これに対して、検察側は弁護団が別のDNA型と指摘するのは鑑定の過程で出る不要な線と反論。「鑑定に誤りはない。ただ、DNA型鑑定は犯人だと矛盾しないことを証明した証拠にすぎない。確定判決はいくつもの証拠から有罪認定しており、揺るぎない」と再審請求の棄却を求めている。
 再審は、確定判決に重大な誤りがあった場合に裁判をやり直す制度。福岡地裁弁護団提出の証拠を評価して結論を下すが、再審開始の条件は無罪などにすべき明らか(明白性)で、新しい(新規性)証拠が見つかった時と刑事訴訟法で定められている(2014年3月29日配信『毎日新聞』)。

 
[4] http://www.huffingtonpost.jp/2015/01/22/katsumata-touden-not-persued-again_n_6527574.html

勝俣恒久東京電力元会長ら再び不起訴 東京地検福島第一原発事故
朝日新聞デジタル | 執筆者: 朝日新聞社提供
投稿日: 2015年01月23日 08時12分 JST 更新: 2015年01月23日 08時17分 JST

東電元会長ら、2度目の不起訴 原発事故で東京地検

東京電力福島第一原発の事故をめぐり、東京地検は22日、業務上過失致死傷の疑いで告訴・告発されていた東電の勝俣恒久元会長ら3人について、2度目の不起訴処分(嫌疑不十分)にし、発表した。1度目の不起訴処分の後、被災者らでつくる福島原発告訴団の不服申し立てを受けた東京第五検察審査会が「起訴相当」と判断し、地検が再捜査をしていた。

ほかに不起訴となったのは武藤栄、武黒一郎の両元副社長。3人については今後、検察審査会が再び審査する。改めて「起訴すべきだ」と判断されれば、強制起訴され、裁判が始まる。

また、同検察審査会が「不起訴不当」としていた小森明生元常務についても、地検は同日、2度目の不起訴(同)とした。これで不起訴が確定する。

原発事故をめぐっては、地検が2013年9月、事故前には東日本大震災と同規模の地震津波は専門家らの間で「全く想定されていなかった」と判断し、勝俣元会長らを不起訴とした。

これに対し、同検察審査会は14年7月、?東電が08年、政府機関の予測に基づいて「15・7メートル」の津波を試算していたのに対策をとらなかった?対策をとっていれば事故は防げた――と判断し、勝俣元会長らを「起訴相当」とした。

こうした見解を踏まえ、地検は新たに専門家に話を聞くなど再捜査をした。?について地検は、15・7メートルの試算は「当時としては試験的な方法で導かれたもので、信頼性は低かった」と判断。同規模の津波に襲われる確率は「100万年から1千万年に1度」であり、「対策する義務があったとはいえない」とした。

震災で実際に同原発を襲った津波は11・5〜15・5メートルで、高さは試算に近いものだったが、幅は東電の試算の約5倍で、その分、水量などは想定を大きく超えていたとも指摘。「津波を想定できていたとはいえない」と結論づけた。

?についても検討。08年に試算を出したことを受け、東電が防潮堤を作り始めても震災には間に合わなかった▽防潮堤が完成する前に建物に防水対策をしても、津波とともに押し寄せたがれきで破壊されていた――などと判断し、「事故を防げたと認めるのは難しい」と結論づけた。

2回目の検察審査会は、1回目とはメンバー全員が入れ替わる。検察の新たな説明は、1回目の審査会の結論と大きく食い違うもので、市民がどう判断するのか、改めて議論される。

■告訴団「結論ありき、不当な判断」

福島原発告訴団は22日、東京都内で記者会見し、「結論ありきで、不当な判断だ。検察審査会が再び起訴議決を出し、裁判となることを望む」と検察の処分を批判した。

告訴団長で福島県内に住む武藤類子さん(61)は「原発被害者をはじめ、多くの国民を無視した判断だ」と訴えた。告訴団は近く、処分理由に反論する意見書を検察審査会に出すという。

東京電力は22日、「今回の処分は検察当局の判断であり、コメントを差し控えます」との談話を出した。

朝日新聞デジタル 2015/01/23 00:00)

[5] http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150123-00000103-mai-int

【カイロ秋山信一】「イスラム国」の広報部門関係者を名乗る人物が22日夜(日本時間23日朝)、「イスラム国」が犯行声明の発表などに使用するウェブサイトにアラビア語で「カウントダウンは始まった」と、2人の殺害が迫っていることを示唆する投稿を行った。真偽は不明。

 ウェブサイトには「カウントダウンは始まった。イスラム国の兵士の目はナイフに向けられているが、日本の首相はまだ陰謀を巡らせ、日本国民は同胞への慈悲を示さなかった」とアラビア語で投稿した。「時計の針は止められない。結果は下に表示されている」と説明し、投稿の下部には、「イスラム国」が殺害した英米人の画像を添付していた。日本人2人の殺害を再び警告する意味合いだとみられる。さらに23日午前(同23日午後)には、別の人物が「カウントダウンが人質の虐殺のために始まった」と日本語とアラビア語で投稿した。

 湯川遥菜さんは昨年8月、後藤健二さんは同10月ごろ、シリアで「イスラム国」に拘束された可能性が高い。湯川さんは民間軍事会社の運営準備、後藤さんは旧知の湯川さん救出や取材が目的だったとみられている。

チョビット

バルセロナでバルにいって飲み物の表を眺めているとウィスキー関連のあたりに量の目安で"Chupito"書かれている。この言葉はショットグラスを意味している。発音が"チョビット"。日本語の「ちょびっと」と音がほぼ同じだし、意味もまさに「ちょびっと」。仰天して私は一発でこの単語を覚えてしまった。あなたがバルのカウンターで"ウィスキーちょびっと!"と日本語でいえば、”(どれにする?)”と、顎をちょっと上げる店のおっさんの目線が飛んでくるわけである。私は実際に試して通じた。おそらく逆もしかり、日本のバーでスペイン人のおっさんが”Whisky Chupito!”とスペイン語でいえば、おそらくわかってくれる。

うそー、と思う方はたとえば下記のサイトはバルセロナショットバー「黒猫」であるが、Chupitoがショットグラスであることが確認できるだろう。

http://blog.lifestylebarcelona.com/gato-negro-espit-chupito-bar/

最近になってそのことを思い出しアルゼンチン人のおっさんに確認したら、アルゼンチンでも”チョビット”だとか。したがってスペイン語では広く理解される言葉であり、バルセロナに限った話ではない。ついでにイタリア人にも聞いてみたら、”チョビット”で通じるそうである。

だとしたら、チョビットの語源はスペイン語でも日本語でも一緒なのではないか、つまり片方が片方から学んだ言葉なのではないか、と、想像が羽ばたく。ネットでちょっと調べてみたけれど、そもそもこの恐るべき相同性の記述はみあたらない。みつけたところではこんな感じである。英語の"a little bit"との音相似性を話題にしてるページから。

ちょびっと という言葉は英語が日本に入る前から使われていました。
ちょびっとの語源は、「ちょっと」からきています。
ちょっととは漢字で一寸と書きます。
この一寸も、もともとは「ちっと」からきています。
このちっとも「ちと」が変形したものです。

http://okwave.jp/qa/q1609260.html

もうしわけないのだが、英語なんかと比べてはいけない。スペイン語である。チョビットの相同性に、それに出会って以来感動しているわたしには「ちと>ちょっと>ちょびっと」に同意できない。なにかあるはずである。ご存じの方がいたらぜひとも教えて欲しい。

無珍先生の帰還

無珍先生がドイツに帰還して3ヶ月半になる。彼は結局、1年を日本で過ごしわたしのもとに戻ってきた。戻ってきた、というよりも、あれやこれやの大人の事情で戻すことにした、というのが正しい。5歳の子供はまだ、悲しいほどに素直で泣きたくなるほど大人の言うなりなのである。実質上の母親である義理の妹との別れも、意外なほどあっさりしたものだった − というよりも、別れの悲しみという表象はまだ彼の中に確立していないのかもしれない。わたしが一年前、彼にしばしのわかれを告げた時に、表情もかえずにナミダだけボロボロと流したように。悲しみもまた、人間が学ぶなにがしかの表象なのである。

一年経って彼はすっかり少年になった。細いからだから弾けるようなエネルギーで突然走りだし、みるみる遠くまで走っていった向こう側から手をふって「はやくきてよ」せかす。そうかと思うと、先を行くわたしに「待ってっていっているでしょ」と半泣きになる。

1年の間に水で洗ったようにすっかり忘れたドイツ語もあっという間に回復した。家でドイツ語まじりで喋り出すたびに、「家では日本語だよ」とわたしは諭す。そういいながら、わたしがしゃべる言葉の端々にドイツ語の単語が混じっているのにあらためて気が付かされたりする。

無珍先生のベッドの横には日本の幼稚園のクラスメイトたちとの集合写真が飾ってある。彼が自分でそこにおいたのだ。彼にとって日本はなんだったんだろう、と、寝顔とその集合写真を見比べながら思う。日本での彼は他でもない、普通の日本の幼稚園児だった。とてもわかりやすい、あの、日本の幼稚園児。最初の一ヶ月は「日本の幼稚園がいい」とこぼしていたが、いまではそういうこともなくなった。日本から持ってきた自分の自転車を一生懸命こぎながら、ドイツのとうもろこし畑の間の道を走り抜ける。

栄養のバランスはいいのだろうか。母親不在で育てることで「自信」の形成は損なわれていないだろうか。言葉をちゃんと覚えることができるだろうか。あれやこれやとハラハラやきもきするわたしをよそに、はるかに柔軟な5歳児は今日もまた元気に森のなかを走っていって「パパあ、早く来て!」といらだちの甲高い叫び声を上げるのだろう。わたしは、はいはいといいながら、ようやくそれを追いかける。なにかに戻ったのはわたし自身かもしれない。

文学の普遍性

中国人の共同研究者がいった。

「まずはソーシャライズ、そのあとでビジネス、まさに東アジアの私達の社会ですね。やっぱりあなたは東アジアの人だ」

私は答える。

「ありがとう。でも東アジアだけじゃないんだよ。どこだってそうだ。僕らは我々を東アジアとして規定する必要はまったくない。でなければ文学の普遍性なんてありえないでしょ。ぼくらはまず飲んで笑う。話はそれからだ」。

返事はこなかった。

でもたぶん、日本文化が世界の人々の琴線をゆさゆさとゆさぶるなにかは文化の普遍性においてし解釈しようがない。中華思想ではないのである。普遍、はスピノザの全く理解し難い汎神的ななにかだ。マクドナルドをうりつけるアメリカ人も、キッチュキッチュとして排除するフランス人も理解しない。普遍性は辺境においてはじめてアジテーションとなるのである。私は辺境そのものだ。たぶん今の日本がそうでない、と主張する以上に。

かくして極東のかなたのわたしのむすこが暮らす地で、「デモはテロ」と公然と言い放つ政府が闇を解き放つかのように急激に育ち始めている。私は自分にいいきかせる、観よ、記録せよ、この愚昧なる繰り返されきた過ちを。私はそれをもはや許す。これはなにか、地理政治をあえて無視してきた歴史の普遍化の運命なのである。そこに私の悲しいほどの人生の混沌がなにがしかの意味を持ち得ることはないだろう。サイード

そうなるであろう、悲劇の現場を普遍的な文学性をもって記録しながら悔いながら母を運命としてもたぬ私の息子がいつかかれそれを読むことができる日にむかって私は以上、かきつける。

スカイピング

最近は実に便利なもので、テレビにHDMIで接続するスカイプを内蔵したカメラなどがあり、気軽にアクセスできる。スカイプコールはリモコンで受けることができるようになっている。受けるのは私の母であるが、接続を切るのは無珍先生もできるようになった。

毎日夜半になると無珍先生とスカイプする。日本ではちょうど朝ごはんを食べ終わったころである。彼はたいてい床に座り込んで、レゴやらおもちゃの電車やらミニカーやらあやとりに熱中している。昨日は座布団の上がジャングルで、そこに探検にいくかどうか迷う人々という設定の遊びをしていた。昨晩読んでもらった本が森に行くという話だったらしい。

「だからー、森に行きたいの」

というので、また帰ったら行こう、だけど今度行くときはまだ冬だから寒いぞ−、と警告したが、寒くてもいいのだそうである。行ったら行ったで、寒い寒いと文句をいうんだろうなあ。

無珍先生はよく「遊ぶから見てて」と私に頼む。見ているだけ、なのだが、見ていてもらうのが重要らしい。私はじっと眺める。ジャングル遊びがひとしきり終わったあとで、20分ほど「大どろぼうホッチェンプロッツ」を読んでやった。けっこうややこしい話なのだがちゃんときいていて… とはいえ幼稚園に行く支度をそろそろしたら、といいながら朗読をやめたら、大きなあくびをしていた。やはり図鑑などを一緒にみながら会話をするほうが楽しいようである。

一昨日は図鑑をいっしょに眺めているうちに恐竜のことで大議論になった。「ティラノサウルスとステゴサウルスはどちらがつよいか?」というテーマである。私には鋭い牙と立派な顎を持つティラノサウルスのほうがより凶暴であるように思うのだが、無珍先生は「ステゴサウルスのしっぽについている刺はすごいんだ」とのことで一歩も譲らなかった。というよりも、「どうしてこの人はこんな簡単なことがわからないのだろう」という口ぶりであった。

ほぼ毎日スカイプすることにしているが、時々帰宅に間に合わないことがある。飲み会などにでかけている場合である。

「昨日はゴメン、友達と会っていた」

と翌日弁解すると

「だからー、友達とちょっと話すのやめて、そこから離れて電話すればいいんだよ、それだけ」

と口を尖らせながらいう。このときにも「なんでこの人にはこんな簡単なことがわからないのだろう」という口ぶりである。いやはや。もうしわけない。

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