「日本を、取り戻す」

4週間ほど日本に行っていた。うち2週間は無珍先生と過ごし、2週間は大阪で仕事をしていた。計測開始以来という猛暑に居合わせたのにはまことに閉口したが、すくなくともそこにいたということでなんとなくオリンピックは参加することに意義がある的な気分である。庭で無珍先生とホースの水をぶっかけあうという懐かしうれしいようなこともできた。

ところで、あちらこちら移動していて目についたのが自民党の「日本を、取り戻す」ポスターである。日の丸をバックにアベ首相が自信有りげに、なおかつ慈愛のこもった目つきで微笑んでいる。このポスターが、異様なほどあちらこちらに貼られている。日本でずっと生活している人は慣れてしまってあまり異常だと思わないのかもしれないが、映画などでも描かれる全体主義の社会を限りなく模倣したような、そのような光景である。Big Brother is wathching you *1. 私は今の日本は全体主義の状況下にあると判断している。詳しいことは面倒なので書かないが。問題はいつまで続くか、だ。今回日本で唯一政治的な話を長時間交わした先輩は財政的なことを理由に「2015年」といっていたが、私はあと10年続くだろう、と思う。10年後どうなっているか、という話はしない。というか明白なのでしたくない。

アベはロードマップを与えられている。この話は2006年に本当かな、と思ってここでとりあえず触れたが、ほぼその通りに展開している、といえるだろう。

http://d.hatena.ne.jp/kmiura/20060926/p1

ポスターの話に戻る。そもそも私が日本で生活していた頃は、かくなるポスターは赤尾敏と決まっていた。赤尾敏の場合は、筆書きで「親米反共」と縦書で書かれたりしていたが、アベ自民党の場合はサンセリフでクリーンなフォント。で「取り戻す」の実態はいったいなんなのかよくわからないが、よくわからないのが全体主義プロパガンダであるというのは相場が決まっている。カタどうりである。ビッグブラザーがなんなんだかよくわからんように。

なお、アベのバックに日の丸が登場したのはこの6月からである。他の「取り戻す」ポスターを昨年年末や今年2月日本にいた時に目にしていたので、なんか違うな、と思ってしらべたところ以下のような時系列になっている。

2012年10月25日からのポスター。
https://www.jimin.jp/activity/news/118914.html

2012年11月22日からのポスター。
https://www.jimin.jp/activity/news/119277.html

2013年6月11日発表のポスター。
https://www.jimin.jp/activity/news/121442.html

昨年10月発表のポスターはとくに石破の面構えもあってどことなくプロレタリアート運動の匂いがする。そこからどことなくお犬様のような見上げる顔のポスターを経て、目下の「慈父」ヒノマルポスターとなっている。このことを記録しておくのもなにかの参照になるだろう。

*1:ウィキから引用する:In the essay section of his novel 1985, Anthony Burgess states that Orwell got the idea for Big Brother from advertising billboards for educational correspondence courses from a company called Bennett's, current during World War II. The original posters showed J. M. Bennett himself; a kindly looking old man offering guidance and support to would-be students with the phrase "Let me be your father" attached. After Bennett's death, his son took over the company, and the posters were replaced with pictures of the son (who looked imposing and stern in contrast to his father's kindly demeanour) with the text "Let me be your big brother." Additional speculation from Douglas Kellner of UCLA argued that Big Brother represents Joseph Stalin and that the novel portrayed life under totalitarianism. http://en.wikipedia.org/wiki/Big_Brother_(Nineteen_Eighty-Four)

カルフォッチ・デラ・ジュディア

ユダヤアーティチョーク。ローマのユダヤ人地区の料理。深鍋に熱したオリーブオイルでじわじわと揚げたアーティチョーク。花弁の先端部分は芯が硬くて普通は食べないのだが、こうして食べると揚げた鮭皮のようにパリパリと食べることができる。

ドライフラワーのような、というよりも、まさにドライフラワー。春の料理なのにまるで秋のような料理。長い歴史をもつローマのユダヤ人の料理をつまみながら話した内容はサイードのOut of Placeだった。場違いであるこの私をいつか認めるようになった、というあの一節。

人と人が会うということにこれほどまでも礼儀正しくなんらかの状況を仮定しなければならないそんな片苦しさを社会に内包してしまった不幸な社会を目前にして私は、「寂しいですね」といった瞬間に正しいことを言ってしまった、そのほろ苦さにじくじくくさりつづけるみたいな感じでよろしいはずがない。

311

2011年の3月11日は、ローマの近くで院生たちに講義をしていた。授業中なのにイタリア人の若者は、「大変だ」と教壇までラップトップをもってきてYouTubeの動画を見せてくれた。津波が渦を巻いていた。

2012年の3月11日は新宿のゴールデン街コスタリカ人と飲んでいた。福島出身の若者たちが開店したばかりのバーで、故郷を語る言葉は少なかったが、ボケとツッコミがじつに見事で闊達な彼らを眺めているのは楽しかった。

2013年、はじめて自宅での3月11日となった。まだまだ寒いバルコニーにじっと座って夜空を眺める。波の音が聞こえるような気がする。

無声慟哭

朝の5時半、寝ていた無珍先生が起こされた。

「いいかい、パパは今ドイツに戻る。無珍先生はネエネと日本で暮らすんだよ」

私はそう伝えた。無珍先生は目を見開いた。その目がみるみるうちに潤んでいった。たちまち大粒のナミダがボロボロと流れた。しかし表情はかわらず、目を大きく開けたまま、声も出さずにナミダだけがこぼれ頬を伝い寝間着に染みこんでゆく。一言も泣き声をあげずに、口を結んだまま。私は絶句した。産みの母親を生後二ヶ月半で失い、四歳になって一ヶ月、父親の私も離れていこうとしている。

私は玄関で靴を履きバックパックを肩にかけ、義理の妹がだっこしている無珍先生に向き直った。無言の私、無言の無珍先生。義理の妹も無言のままじっと無珍先生を抱きしめている。じゃあ、オーベン(肩車)してあげようか、というと、無珍先生はいつものようにうれしそうな顔で両手をめいっぱい伸ばしてきた。肩にのると、毎度のことながら私の頬をぎゅっとつねるようにつかみ、ひげをなで、耳をゆっくりとたしかめ、頭にふわっと抱きつく。もう少し小さい時にはこのまま私の頭を枕に寝てしまったりしたものだ。今のこの無珍先生、この無珍先生を肩車をするのはこの今だけなのだと私は思い、どうしようもなくなってしまった。無珍先生を義理の妹にふたたび預け、後ろを向いてスーツケースを手にとりながらなんとか耐えようとおもっていたのに私は声を抑えながら泣いてしまった。

なんで?

と無珍先生があの天使のような声できく。

無珍先生にバイバイするのが悲しいからだよ。

私はそう答えるのでやっとだった。じゃあね、と、やっとそういって私はスーツケースを持ち上げ、玄関を出た。

空港に向かいながら呆然としたままま本当にこれでよかったのだろうか。何度も自分に問うた。わからない。自分の理屈だけでは判断できないことであるから、私は児童心理が専門の精神科医に頼り、その助言に従った。何度も反芻した会話を再び思い出す。

− 父親は思春期になるまで子供には関係がないのです。いればよいのです。それだけです。しかし母親はちがう。息子さんの場合は幸運なことにあなたの義理の妹さんがいました。彼女がお母さんの役割を果たしてくれたお陰で息子さんはここまで立派に育ったのです。彼女から離してはいけません。

今、離したらどうなるのでしょう

− これから小学3年生ぐらいまでの母親との関係は、将来の自信に大きくつながっているのです。自己承認につながっています。父親にはそうしたことはありません。

八歳になったらまた私の元に戻してもよいのでしょうか

− うーん、そうですね、ギリギリです。

しかしですね、かくなる母性の重視は文化的なものではないでしょうか。ご存知だと思いますが、例えば国際結婚したカップルのうち、母親が日本人の場合、離婚して子供と勝手に帰国してしまい、父親がアメリカなどで訴訟を起こす例が知られています。母親という存在の重さの違いが明らかにある。このことを考えると、先生の意見は、文化依存的であって、日本にのみ特殊な話ではないですか。

− 確かにそうです。例えば土井先生が「甘えの構造」で明らかにしたのはそのようなことです。

だとしたら私がドイツで育てても問題はないのではないでしょうか

− 今まで彼を育てたのは、あなたと義理の妹さん、いずれも日本人です。彼にとっての母親の役割はやはり日本のそうした文化の範疇に入っているのです。

何度も考えた末に考えようのない話であるという行き止まりに何度もつきあたり、結局、専門家の意見に任せるしかない、ということでただただ、従った。文化のギャップさえそこにはあった。カルチャーショックでさえあった。感情的にはありえない、私には不可能である。しかしそれが無珍先生にとってはそれが一番なのだ、と。

  ほんたうにそんなことはない
  かへってここはなつののはらの
  ちいさな白い花の匂でいっぱいだから
  ただわたくしはそれをいま言へないのだ
     (わたくしは修羅をあるいてゐるのだから)
  わたくしのかなしさうな眼をしてゐるのは
  わたくしのふたつのこころをみつめてゐるためだ

… どう彼につたえたらいいのでしょう、と私は精神科医にきいた。罪悪感はすべて父親が引き受けるべきです、精神科医は答えた。すなわち、私と別れることを私が無珍先生に命令すること。「お前はネエネと日本にいなさい」と。無珍先生に判断させては絶対にいけない、なぜならば、自分が選択した、という気持ちがずっと残ってしまうから。

義理の妹が日本に戻る、私とは暮らせない、ドイツでは暮らせない、という決意を表明したのは二ヶ月前だった。以降、一ヶ月間議論し、一ヶ月日本で過ごした。「いつドイツに戻るの?」と私に聞いていた無珍先生も、私が彼の元を去る頃には聞かなくなった。素直に運命を、あまりにすなおに受け止める様子は私を少しだけ安心させ、ひそかに悲しませた。無珍先生は精神科のクリニックをとても気に入って、「あそこに行こう」というととても喜んだ。プレイルームで広大な線路を組み立てた。肩車をして、寒い停留所でバスを待った。春はもうすぐそこだった。

そして罪悪感はすべてあなたが、と精神科医は言った。私は確かにそうして四歳になったばかりの無珍先生の沁み入るように静かに流れ落ちるナミダを壊れた映写機のように何度も思い出しながら自ら選んだ鉛の塊のような罪悪感に沈んでいる。悲しみは、悲しみがナミダに結びついて初めて泣く。無珍先生は泣いていなかった。声を立てず顔もしかめずに、ただただナミダを流していた。その主が帰らず遊びかけになったままのおもちゃのあれこれを前に私は立ち尽くす。

イデオロギー

気温が摂氏15.0度である。これは測定値であり、厳密に測定された値である。一方、15.0度の屋外において半袖で1時間過ごしたときにどれだけの人間が風邪をひくか、という統計値があったとする。仮に100人に1人が風邪をひく、という結果だったとする。なにもしなくても健康の不注意から風邪をひくことはあるわけで、このことを勘案した上での解析結果、余剰のリスクである、とする。

あなたは15.0度の屋外で半袖のまま1時間過ごすべきだろうか。この国は妙な国で、国をあげて半袖で外で過ごすことを奨励している。薄着は健康の増進に役立ち、ひいては社会を安定させることになる、と考えられているからである。「半袖で社会貢献」などといった標語まであり、街角でそんなノボリをみかけることもある。

本来科学者は、計測することしかできない。あくまでも計測。数字をだす。とはいえ、ある科学者は「100人に1人しか風邪を引かないんだったら半袖で外ですごしなさい、たいした話ではない。ぬくぬくと厚着をしているほうがよっぽど身体に悪い」と人々に向かって発言する。別の科学者は「いや、100人に1人でも風邪をひくのであれば、あなたは半袖で外に出る必要はない」と人々に向かって発言する。

いずれの科学者が「科学的」なのだろうか。実はいずれの科学者も科学的ではない。前者は結果から言えば体制よりの発言をしている科学者である。後者は国策に反している。反体制である。したがっててその発言において、いずれの科学者も政治的なイデオロギーを語ったことになる。この点においてそれはもはや科学ではない。その科学者が普段から意識することなく(あるいは意識的かもしれないが)政治的傾向が少なからずそこには反映される。計測値までが科学なのである。にもかかわらず、科学者という肩書きをもつ人間が発言したことによってそれがあたかも客観的な科学であるかのごとく捉える非科学者は少なくはないだろう。

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国家を運営している人間は必死になって国家を運営しようとしている。一部には個人の利益とか名誉欲を満たすために「みなさんのため」という仮面をぶらさげて運営している人もいるかもしらんが、おおまかには国家を守り、多くの人々の生活をうまく継続させようとしている運営者が大半であろう。彼らが必死に考えるうえでどうしても導かれるのは全体最適化である。最大多数の最大幸福。

国家の運営を担当しているわけではなくても、全体最適化が結局いちばん重要なのである、という意見をもつ人は、国家を運営している人間と似たような考えになる。これは運営者の目線を共有することであるから当然なのである。

非常事態における消費者の買い占め行動について考えてみる。大地震などで買いだめが跋扈したときに、「買いだめはよくない」と誰もがいうだろう。国家レベル、とはいわないが、社会のレベルでの全体最適化を考えれば、買いだめはよくないに決まっている。ただでさえ足りなくなるモノが個人の物置に隠匿されることで必要なところに行き渡らなくなるからである。私もそうだ、と思う。私はこのことにあまり疑問を持っていなかった。

花森安治という人がいた。すでに故人であるが、「暮しの手帖」という雑誌を作った編集者である。広告を全く掲載せず、家電製品などの性能テスト・比較を行うので、メーカーには恐れられた雑誌だ。私もそのことは知っていたのだが、先日花森安治の伝記を読んで、その考え方に少し触れることができた。私の頭に最も強く残ったのは、オイルショックの時に花森安治が、主婦によるトイレットペーパーの買いだめを擁護したことである。その背後には次のような花森安治の考え方がある。

ぼくらの暮しを、まもってくれるものは、だれもいないのです。
ぼくらの暮しは、けっきょく、ぼくらがまもるより外にないのです。……

政府というものは、…… 資本主義の国でも、共産主義社会主義の国でも、…… もともと、…… 国民の暮しやいのちをまもる、それを何よりも第一に考えている政府など、この地球の上のどこにもありはしないのです。

戦時中の花森安治は、全く逆のことをしていた。大政翼賛会で働いていたのである。芸能班長として宝塚歌劇団の戦時向け脚本をかいたりしている。大政翼賛会をしらん人でもつぎのような標語は知っているだろう。

さあ二年目も勝ち抜くぞ
たった今!笑って散った友もある
ここも戦場だ
頑張れ!敵も必死だ
すべてを戦争へ
その手ゆるめば戦力にぶる
今日も決戦明日も決戦
理屈言ふ間に一仕事
「足らぬ足らぬ」は工夫が足らぬ
欲しがりません勝つまでは

昭和17年11月、大東亜戦争一周年記念国民決意標語募集、応募32万余。
主催:大政翼賛会朝日新聞東京日日新聞、読売新聞、後援情報局

主に大きな新聞社の記者が引きぬかれて構成されたのが、大政翼賛会である。このことに関して、戦後かなりたってから花森は次のようにいっている。

生まれた国は、教えられたとおり、身も心も焼きつくして、愛し抜いた末に、みごとに裏切られた。もう金輪際、こんな国を愛することはやめた。

この裏切られた先に、全体最適化の否定、すなわち買いだめ行動の擁護がある。個人、それも生活者ひとりひとりの立場に徹底的なまでに立っているのである。少なくとも、東日本大震災の際に買いだめをどうどうと擁護するほどの人間を私はみかけなかった。生活者ひとりひとりの実感の側に徹底的にたって買いだめさえも擁護する、そうした人がいた、もはやいない、ということは知られてもいいだろう。

花森安治の仕事

花森安治の仕事

追記

ブックマークのコメントが面白かったので特にいくつかピックアップしてみる。
id:Erlkonigさんは
「弱者が大挙して買占めに走った時にいちばん割りを食うのは強者ではなく買占めに乗り遅れる更にどんくさい弱者なので、どんくさい私は私の身を守るためという利己的な動機で買占めに反対します」という。
買い占めが席巻する中で「私は困ります」と声を上げても、多勢に無勢でおそらく飢えるないしはトイレットペーパーの枯渇という情けない結果は免れえないであろうから(とはいえ、昭和40年代にはまだ新聞紙を切って落とし紙にしている家とかあったのを思い出す)、これは社会に対する同情、あるいは社会倫理の要請である、と考えられる。社会を調整する政治的な機構、たとえば国家や任侠はこのようなところから発生することになる(あるいはイデオロギーの発生だ)…のであるが、id:takehiko-i-hayashiさんは
「政府に騙された→政府いらなくね?→自己利益最大→万人の万人に対する闘争→やっぱ政府いるかも→政府つくる→政府に騙された→(最初に戻る)」
という統計と最適化の専門家らしい、俯瞰あるいは諦念さえ感じるコメントを残している。「買い占めはダメ」という殆どの人が納得している点に断固反対する人がいないのは社会としてバランスを欠いた状態なのではないか、ということを林さんが示した時系列にならっていうと、時系列そのままに皆が一斉に順繰りに社会への関わり方をアップデートしていく状況というのはなんともダメだなあ、というか。循環する時系列のそれぞれの時点のポピュレーションがバラバラになって、同じ時点に混在している、そこでバランスがとれるというのが社会なのではないか、と思うのだがどうも今はそうではない。id:yukitanukiさんは
「そのうち「この論文は学位がかかってます」「ポスドク最後の年です」「研究で生計を立ててます」「ぎゃふんと言わせたい人がいます」「人間です」を利益相反に明記する必要が出てくるな」
というのだが、人間の行為から人間を排除しようというそもそもの科学の方法論は、日本の歴史において繰り返されてきた形式主義の焼き直となって社会化し、出てくるまでもなくすでに冗談のような話になっている、たとえばその片鱗が「二十歳以上」のボタンをコンビニで押す、というわけのわからん話になっていたりする、と私は思う。あれはネットのポルノサイトの「18歳以上ですね yes no」がリアル世界に登場したという意味でヒューマンインターフェースの歴史において画期的な話ではあるのだが、たぶん日本はこの線で世界の最先端を突っ走るだろう。ついでなんで妄想を書くと、ケータイのSIMは皮下注射されるようになる。それが個人のIDになる。ついに近代的自我が日本においてかくして実現するのである。
結果、まとめるとid:KaeruHeikaさんがいうように「内なる無意識的なイデオロギーと向き合い、考え直すほどの強靭な精神が失われていることへの憂い。規範や、自分が繰り返して来た行動を、否定できる強さの話。科学や買占めの話は本筋ではない」、ということなのである、うまいこというなあ、と思っていたらid:Midasさんが
「買い占めは単なる購買1)金持ちだけが買い占めれる2)「私は理性的な市民だが誰かが買い占めると困るから私も買い占める」他者を想定するがゆえイデオロギーから1歩も出てない。擁護すべきは買い占めでなく略奪」
とのコメント。花森安治よりもう一歩踏み込んだ、いわば”所詮プチブルが”という意見を述べている。というわけで、一人ぐらいはそのような意見を言う人もいるわけで、まあ、世の中捨てたものではないのである。あるべき社会というのはたとえば、id:Erlkonigさんとid:Midasさんがマンションの隣人でベランダ越しに互いに「そんなのありえん」と議論していたりする姿ですな。それが実に想像しがたい、というのが実に憂うべき現状なのである。

2012年年末・日本

年末に3週間ほど日本に帰国していた。なんだかんだいってクリスマス直前までデニーズに通って仕事をし、明けて3日にはこちらに戻ってくるという何しに行ったんだか、という滞在ではあったが、いちばんの目的であった無珍先生を日本の幼稚園に通わせる、というプランを達成することができた。

デニーズの最近のデザートを全て制覇したのも特筆に値する。店内で無線LANを無料で使えるというのも、公衆ネット環境が時代遅れな日本におけるゆっくりとした進歩を感じさせてくれた。席に座って周りを眺めると、ラップトップで仕事をしている人も結構いて、一度は大学院生っぽい男がRでなにやら計算して四苦八苦している様子で、おお、同志よ、ということでニヤニヤしてしまった。一方でファミリーレストランに行こうとしたら、以前は犬も歩けばファミレスにあたる、という感じで探す必要もなかったのにずいぶんと数が減ってしまった。高校時代ファミレスで放課後を過ごすことが思い出の一部になっている私にとってはまさに隔世の感。急用があるとファミレスに家から電話がかかってアナウンスで呼び出されたりしていたものである。

義理の妹が無珍先生を連れて11月下旬に日本に飛び、ドイツに残った私は5年前のようなひとりぐらしの二週間の生活となった。無珍先生がやってきて以来、はじめてのことである。とはいえ残念なことに明け方まで仕事に没頭するだけで昔のようにバーにでかけてどんちゃんさわぎ、などすることもなく(かくなる楽しみに期待するところがなんとはなしにあったのだが)、集中するチャンス、とばかりに必死で仕事を終えようとしてしまう自分に一抹の寂しさを感じたのだった。時間乞食。あさましい。

成田に到着した最初に無珍先生が発した質問は「なんでみんな日本語をしゃべっているの」だったそうである。後にドイツの幼稚園に戻ってから知り合いのフィンランド人のお母さんにその話をしたら、彼女の子供もフィンランドに行って「なんでみんなフィンランド語なのか」ときいたそうである。

「日本の幼稚園なんか行かない」と日本に飛ぶ前にさんざん言っていた無珍先生であるが、いざいってみたら一時入園のための面談で紹介された若くてかわいい幼稚園の担任の先生が一目で気にいったらしく、翌日の登園初日には無珍先生を幼稚園に置いてくるのにどれだけ苦労するかと想像し覚悟していた義理の妹だが、幼稚園に着くや否や担任の先生のところにかけよって抱きつき、だっこしてもらってむきなおり、バイバイと義理の妹にあっさりと手をふるので、逆に義理の妹のほうが少々ショックだったようである。まあ、なんつーか、男の子は3歳児でもオトコである。私もはじめてのプロポーズは幼稚園の担任の先生であった。かくして無珍先生は制服を着て毎日元気に幼稚園に通ったのだった(半ズボンは寒いのでどうしてもいやだ、とのことでズボンを履いていた。特例として許された)。

日本の幼稚園で少々驚いたのは母親たちの年齢である。幼稚園では父母参加のクリスマス会が企画されていたので私も参加することになった。男親は一人もいないであろう、なおかつ私より一回り以上若いお母さんたちばかりでさぞかし浮いた存在になるだろう、と予想していた。いざ行ってみると男親が私以外一人もいないという点は正しかったが、母親たちの年齢が結構高く、ジェネレーションという意味では私は浮くというほどでもないなあ、と感じた。幼稚園という場所に特有なあの幼稚園日本語も跋扈はしていたが、絶句するほどではなく私は会話を普通に成立させることに成功した。もちろん私がそう思っていただけで、母親たちは「すげーおっさん」と思っていたかもしれない。日本における出産の高齢化は人口統計などのグラフではよく見かけるが、実感したのはこれが初めてである。まあでも、よく考えたらドイツの方の幼稚園もそうだもんなあ。

日本の幼稚園に通わせてみる、というのはずいぶん前から実家の母や義理の妹が推奨していたことであった。日本語の発達のためにはそれがかかせない、というのが理由である。この点私も賛成だったのだが、私が気になっていたのは日本の食品に混入している放射性物質である。2012年の春に汚染濃度の基準値が改定されてずいぶんと低くなったことはポジティブな変化であったが、それでも不安は不安である。さらに生協などが公示する測定値などをいろいろ眺めたりして、まあ、気をつければ一ヶ月ぐらいだったら大丈夫だろう、と判断したり、母が食品汚染に関してやたらと詳しくなっておりこれが安全あれが危険、例えば鯵は未だかつてセシウムがでていない、等々とアドバイスできるようになっていたこと、義理の妹が野菜などを安心出来る販売元から購入する手はずを整えたりしたことから、決行の運びとなった。家での料理もすべてミネラルウォーターである。

スーパーで舞茸などを眺めていたら、URLとロット番号が書いてあり、ネットにアクセスすれば測定値を調べることができる、と書いてある。すげー、と思って購入し、家に帰ってしらべてみたら確かにそのロットの測定結果を知ることが可能である。あるべきシステムである。

とはいえ、なのであるが、いざ日本に無珍先生と一緒にいると、あそこのラーメンを食わせたい、あのホルモン屋に連れていこう、と結果からいえば未知のリスクに触れる結果となった。一ヶ月という時限であるからまあいいか、という甘い判断を下してしまうのだが、ずっと住んで低強度汚染の状況に子供のリスクを計る親たちのストレスがいかほどのものかうかがい知ることができた。住んでいるとなればすべてが継続的な積算値として計上されるわけであり、これは一ヶ月の実感からはどうにも敷衍できぬ、というか、最初は心に引っかかっても気にかけることをそもそもやめてしまう人間が多くても不思議ではない、と思う。日常はかくまで圧倒的。考えることをやめる、という点においておそらく測定値の多少はほとんど関係がないだろう。単に考えることを諦める、という態度に帰結するように思える。いってみれば、通奏低音のように背景に存在するリスクはもはやリスクとはいえない。選択が不可能な要素は私の言語ではリスクとはいわない。あまねく広がり不可視なホットスポットを形成する放射線核種という公害は単なる不条理なのであり、それは沈黙の怒りや暗渠の不安として日常に回収され抑圧されるのだろう。

ドイツに戻って出勤し、明けましておめでとう、日本に行っていた、などと挨拶していたら、なんと初日の半分の時間はさまざまな人間に日本の状況に関して質問され、答えることになった。三重メルトダウンという史上最悪の原発事故をおこしたのになんで原発推進の立場が圧勝し政権をとることになったのか、という質問である。

圧勝は小選挙区制というシステム上の特性が大きな原因であると思われるが、勝ったこと自体はよくわからない、結果からいえば即効性の高い景気の浮上をとるか、エネルギー政策の根本的な転換をとるか、という選択肢において日本人は前者をとったのであり、長期的な社会倫理という視点は捨て去られた、と私は答えた。なぜ?なんでなんだ?と彼らはさらに聴くのだが、私にも説明できない。かれらがそのようにこだわるのは、リスク社会、とウルリッヒ・ベックが呼んだように、原発事故が地球レベルの問題だからである。汚染は確実に全世界に散らばる。物理的にその害を個々の肉体で受けるのも全世界の人々だ。そのような視点からすれば、日本は地球レベルでの人間社会に対して反省のない反社会的、非倫理的な決断をした(もちろん核実験など他の国の問題もあるが)、と捉える人間がいたとしても不思議ではない。もちろん、もはや日本の多くの人間はそれに対して「威風堂々」だの、「決然と」だのといった威勢のいい修飾語を煌めかせながら国益優先を唱えることだろう。人はいずれ死ぬ、馬鹿げた心配だ、と冷笑する「科学的」な日本の人間もいるだろう。それに与せぬ私が「なぜだ」と聞かれている。

この気分、私が思い出すのはアメリカの中学校での経験だ。歴史の授業で真珠湾攻撃のことを学んだとき、あの授業のあとはなにやら級友の質問やいじめっこの難癖、針の筵のようだった。同じではない。しかしどこか同じである。