フィンランドの国際化

フィンランドのことでメモしておくべきことがある。2007年に教えたときと、今回2012年の大きな違い。学生の構成である。教室にやってくる学生は、院生からポスドクたちなのだが、2007年の時点ではそのほとんどがフィンランド人だった。留学生というと、スウェーデン人、イギリス人、ドイツ人がちらほら。日本人もひとりだけいた。フィンランド人の学生って日本の学生に良く似ているなあ、と思ったのは、講義の途中でなにか質問は?と聴くと、シーンとしている一方、では終わりますといって、廊下にでると小走りで追っかけてきて、すみません、ちょっと質問が、とすまなそうな顔をしていいに来るところだった。まあ、そんな感じだったのである。

5年後の2012年、教えに行ってみたらなんと半分以上、70%が留学生だった。ヨーロッパの留学生、というよりもインド人、中国人、アラブ人、ペルシャ人、アフリカ人。正直言って、あんなにたくさんのアフリカ人を教えたのは初めての経験だった。昼食などはインド人の学生やポスドクに囲まれて毎日食べることになった。トゥルクの大学は5年の間に物凄い勢いで国際化したのである。先方の教授にその感想を述べたら、ああ、そうだよ、フィンランドは変わったんだ、とこともなげに答えていた。よくよく街で観察してみると、バスの運転手が英語をベラベラ喋るアラブ人だったり、真っ黒なチャドルのおばさんが子供を何人も連れて買い物をしていたりする。道行く若者も中東や黒人の若者が結構な数であった。

2007年ごろ、というとちょうどそのトゥルクの大学の教授たちがうちの研究所に視察に来たあとだった(そのときにうちで教えてくれ、と頼まれてフィンランドに飛んだのだった)。かれらの目的は「大学の国際化」だった。当時、日本もシンガポールも、国策で産業構造を知的産業ベースに転換しようと画策しており、どこも国際化ですなあ、などと思っていたものだが、フィンランドはアイデアとネットワークで、シンガポールは途方もない規模の予算投下でそれを実現しつつあるように思う。

サンフランシスコに15年いて2年前に帰ってきたというフィンランド人の教授と雑談しているときにその話になったのだが、「以前のフィンランドだったら私はサンフランシスコに逃げ帰っていたかも」と笑っていた。彼女の意見では「ノキアフィンランドを変えた」とのことである。これは2007年もそうだったが、フィンランド人はものすごく頻繁にケータイで電話をかける。電話するほどのことか、というようなことでも次々に電話で細かく段取りが出来上がっていく。ノキア以前は、人と人のコミュニケーションは遥かに疎であった、と彼女は言っていた。ケータイが社会に登場したことと、物凄い速度で起きた国際化の関係はよくわからない。とはいえ、社会のこれほどあからさまな変化を実感したことは私にとってまれな経験である。

ボルドー断章

7月から8月半ばまで、夏だというのに申請書だの原稿だのフィンランドのプログラムだの〆切がいろいろあって、ドタバタしていた。技術関連のミーティングに登録したら、会議の紀要に論文を書くことが必須なのだという。生物系だと概要だけ書いて発表なので勝手が違う。理系でも分野による作法の違いは著しく。このあたりの差が、複合分野の場では申し合わせのなかった不測のあれこれを引き起こして慌てたりするのだが、まあ、なんというか、ある分野で常識と思っていることは他の分野では非常識だったりするわけである。違う文化。

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ドタバタしていたのはこれまでほとんど出張との組み合わせでしか休暇を取らなかった私には少々難度の高い家族旅行という〆切もあったからである。あらかじめの用事もなくスクラッチから旅行を考えるのは久しぶりだった。行き先は今や貧乏画家のフランス人の友人が住むボルドー。彼は「政治にまみれた科学」に失望しポスドクを辞め美術学校に入りなおした人である。ドイツから片道1000キロの道のり、フランスの延々と続く農作地帯を抜ける。元物理学者の彼は予備校で数学を教えて生活費を稼ぎ、国から芸術家向けの助成金をもらって家賃を払っている。長年女ができないという非モテな悩みを抱えていた自尊心過剰かつ恥ずかしがりやの彼も、今や美術学校で知り合った若い恋人と二人で暮らしている。熱波でとてつもなく暑い中、蚊にさされつつ、自作の画が全面に描かれた壁のあるバルコニーで涼をとりながらボルドーワインを次々と空けた。2009年の葬式の夜には、貧乏美学生なのに全財産はたいて飛んできてくれた彼だけを家に招いて、二人でほぼ黙ってグラッパを飲んだ。ゆっくり話したのは何年ぶりだろうか。彼は今でもピュアな科学者だった。

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樹上生活者が発見される。木の枝を伝いながら家族で生活している。歩き始めたばかりの子供が危なっかしい足取りで細い枝をつたって母親を捜している。「危険ではないか、そんなところで子供を育てるなんて」と近所の人々が口々に非難する。「お前らが落ちてきて我々が圧死したらどう責任をとるんだ」「ゴミを落とすな」などと詰め寄るものまで現れる。しかし樹上生活者は樹上でしか生活できない。地上は彼らにとってあまりに異世界であり、地上に降りると、愛着ある樹上を離れたストレスに苦しむのだ。そこで「樹上で安全に暮らす方策を彼らと共に考えよう」と言い出す地上の人間が出現する。樹上生活者に優しく語りかける。「重力について一緒に考えましょう」「それはもう、そこにあるのです。位置エネルギー、知ってますか?高所であればそれは線形に増加する。高いところであればあるほど危険なのです」。「でもあなたの住んでいるところだったら、大丈夫、それになにしろそこがいちばんあなたが安心するところなのですから」。近所の人々の糾弾に困惑していた樹上生活者は、ある者は安心し、ある者は「ではどのぐらいの位置エネルギーだったら?」と困惑する。あるいは、「樹上に住みたいわけではないけれど、すみかを追われてここにしか住めないのです、どうにかしてください」と訴える。

思えばかつて霊長類はいつのまにか木を降り、二足歩行をはじめた。

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差別は差があるから差別が起こるわけであるが、差そのものは否定すべき対象ではない。差別があるから差を隠蔽する、あるいはよりポジティブには無化する、という手段を反差別の手段として採用する人もいるわけであるが、これは差別をなくすことにはならないだろう。それは隠蔽である、差はあるではないか、という人間が必ずでてくるからである。それは差であるか、差でないか、という議論は延々と終わらない。あるいはシンタックスとしての言葉狩りに終始することになる。結局私が思うのは差を単に認めること、差はあるのである、とするしかないことである。しかし、それは差が生じることを積極的に肯定することも含むのであろうか?究極的にはそれは死の積極的な許容、それもまたアリ、という立場にもなる。例えば放射線被曝は多かれ少なかれ、突然変異の確率を上昇させる。あるいは死ぬ確率も上げる。差の認知という理性が差の生成、死の積極的肯定を含むのであれば、差を奨励する立場を一貫し大いに放射線を浴びるべき、ということになる。あるいは死という絶対的とも思える差を全面的に認めることでしか究極の差別は無くならない。…しかし私は死に対して日々無意識に抗っている。

差は、自然だろうか。理性だろうか。

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自然を眺める科学者という立場を考えれば、この地球がいくら放射能まみれになろうが知ったことではない。あるいはそのために人類が滅びようが、あるいは他の種が絶滅に瀕しようがそれもまた自然なことなのである。人類を死滅させるような放射線の元で生き延びる進化をとげた生命システムなり、あるいはより極端には全くことなる月面のような荒涼たる自然がそこには豊かに息づくことになるだろう。恐竜の絶滅を思って寂しく思う人間はいるかもしれないが、泣く人間は殆どいない。異性愛、家族愛、博愛、人類愛と愛はレベルづけされているが、自然愛がもっとも広汎かつ過激であり、環境保護とは全くの対極に位置する。ピュアな科学者とはそのような神の視点の困った存在である。

トゥルク・フィンランド

最初にトゥルクに来たのは2007年だった。60人乗りの小さなプロペラ機で到着した飛行場でスーツケースが出てくるのを待つ。ベルトコンベアがぐるっと回っているその真ん中に、巨大なムーミンが手を広げて立っている。そういえば5年前も4年前もこのムーミンは同じ格好で立っていたよな、と思い出す。やがて出てきたスーツケースを持ってタクシー乗り場に向かうとこれまた以前のように、タクシーがいない。なにしろ待っているタクシーはいつも数台しかいないのである。私より先に出た他の乗客が乗ってしまって、次が来るのをまたなければいけないのだ。

まあ、そのうちやってくるだろうと、やたら静かな田舎の駅のような飛行場の軒先のタクシー乗り場のベンチに一人で座る。大きな虫が何匹も北の短い夏を生きいそぐような凄まじい勢いで飛び回っている。こんなでかいのに刺されたら困るな、と思いながら電話を取り出してホテルの予約の確認などをしているうちに、もう一台のタクシーがやってきた。

街へ向かう道のりはどこか見覚えがある。二度も通ればなんとなく覚えているものだ。街のはずれにさしかかり、あっ、と思った。街のはずれにある、遠距離バスのターミナル。楕円形のきれいな建物がチケット売り場で、彼女が気に入って何枚も写真をとっていた。あの建物だ、と思い出す。2007年の夏、今回と同じくトゥルクの大学院生に向けた講義と実習で私は初めてこの地を訪れ、仕事が終わる頃に彼女はやってきた。一人で街の中をあちらこちらを彼女は探検した。仕事が終わった次の日、このバス停につれてこられた。これだというバスに乗り込み、はるか遠方のアルバー・アアルトが設計したというパイミョオのサナトリウムを見物に行ったのだった。キオスク兼食堂があるだけの終点でバスを降り、そこからタクシーで森の中にあるサナトリウムに向かった。真っ白なファサードが眩しかった。

彼女が残した写真はたくさんある。なんらかのデザインを撮影したものばかりである。次々と眺めていると、彼女がなにを大切にしていたのか、なんとなくわかるような気がする。トゥルクのバスターミナルは、彼女がなんていっていたのかも思い出すことができる。「このまるっとした感じがきれい」。まるっとした感じ、かあ。と私は2012年の今、つぶやいてみる。

トゥルクでいつも逗留するホテルから通勤していると、あちらこちらに彼女の影を発見する。あ、そういえば、あそこのイッターラのアウトレットの店がいい、っていっていたよな。

あの教会には先に彼女が行って、おもしろいから中を見なよ、と勧められて二人で見に行ったよな。

この図書館には入り込んでみて、片面が前面ガラスになっていた。光がきれいだねえ、とため息をついた。

川岸のレストランでは、店から流れ出るにんにくの香りにふたりとも気がついて、次回来たときにはこのレストランだなあ、と、どちらからともなく話した。

街の中にどこにでもある「ヘスバーガー」というファストフードの店。まずそうな店の名前だなあ、といいながら、なんか笑ったような気がする。なんで笑ったのかどうしても思い出せない。そう思っていたホテルでの夜、スカイプでドイツにいる無珍先生と義理の妹と話した。「街中にヘスバーガーってのがどこにでもあるんだ」と話した。義理の妹は言った。「モスバーガーみたい、あはは」。そうだ、彼女も「モスバーガー」ってまぜっかえして笑っていた。さすが姉妹だ、と私は妙に感心する。

シベリウスミュージアムの横を通り過ぎる。2007年、招待してくれた教授がシベリウスミュージアムで開いてくれた教授の娘の小さなピアノコンサートでは、シベリウスの曲を披露してくれたその小さなピアニストと並んで座って彼女はなにやら話し込んでいた。

教授の娘は今や18歳の北欧美人になっていた。半年ほど政府の助成を受けてシカゴにピアノの勉強で留学して帰ってきたところだという。トゥルクから一時間離れた、古い農家を改造したレストランで、再び小さなコンサートが開かれた。彼女はアメリカの曲と、フィンランドの古い民謡を交互に弾き、ドビュッシーアラベスクを弾いた。20時半なのに美しい日の光のなかで、白いドレスを来た美しい娘が奏でるメロディーを聴きながら私は夢を見ているのかもしれない、と思う。

すごかったね、いや、ほんとに素晴らしかった、と教授の娘にお礼を言った。にこっとしながら、ありがとう、と流暢な英語で彼女が答える。黒いリボンを腰に巻いている。「ピアノのブラックベルトだね」というと、彼女は声をあげて笑った。

官邸前の難民

タイミングがあうとうちの車に同乗するヒッピーのような長髪の宇宙物理学のドイツ人に「ヒッグス粒子もりあがっているねー、パーティーはどんな感じ?ノーベル賞だね」と今日聞いてみたら、「いやはや、残念なことだ、見つからない方が面白いのに」などと斜めな事をいうんでニヤニヤしてしまった。彼はたぶん「ノーベル賞は自分がとる」と思っているのである。

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原発事故によってその土地を奪われた人々は古典的な定義にしたがう真性の難民である。土地を失いすみかと慣れ親しんだ生活を捨て、持てるものだけを持ってあてどもなくさまよう、というのが難民だ。私もまたホンモノの難民の孫であり子供であるから、難民がどのようなものであるかを幼少の時から何度も聞いている。祖母の小さな引き出しの中に入っていた、背景がきりとられ人物だけが人型になっている数葉の家族写真は私の原体験でもある。

官邸前のデモの人々を私は写真や断片的な動画で眺めるしかないのだが、その姿にはどこか難民の趣がある。20時になればいつものねぐらもどるデモの人々は難民というには豪華すぎるのは確かであり、この想起は本物の難民に申し訳ない気もするが、趣、である*1。プラカードを手にし、「再稼働反対!」と声を上げ、太鼓をたたき、日の丸や白い風船を手にする。闘争というイメージからは程遠い。警察の誘導にすなおに従い、鉄柵と何台もの護送車に囲まれて、場所を譲りあいながら抗議をしている。困惑し、不安であり、怒っているが、柵をけとばすことはない。

難民のイメージが私の中に湧き上がるのは、ひとまずそこに老人や子供や母親がいるからだろう。難民という集団はあらゆる年齢層で構成される。そして非力さ。警察というむき出しの暴力を前にして従順に並ぶ人々は、何ごとかをえんえんと待ち続け長い行列を作る難民にどこかしら近しい。なによりもそこにあるのは、なにかを大きく失ったこと。官邸前の”難民たち”、彼らはなにを失ったのか。私の心に浮かんだのは、「国に捨てられそうである」あるいは「捨てられた」という意識なのだということだった。捨てるなよこの野郎、あるいは捨てやがったな、と、官邸国会及びその周辺の歩道に金曜の夕方やってくるパートタイムの難民*2

捨てられる、という感覚の根拠は別に原発の再稼働に限った話だけではないだろう。Baatarismさんが、消費税増税後の日本という記事で、経済成長率がマイナスになる暗澹たるフィギュアを丁寧に論じている。消費税増税はすでにいわゆる官僚用語でいう「日程に乗っている」からして、ほぼ確実に起きることである。それを駆動するのは原発の再稼働を駆動した力と同一である。あるいは、貧困化がこの何年も問題になっている。孤立した難民は日本国内に増大しており、餓死したり貧困の中で子供を死なせてしまうといった事件が起きているが、全ては「自己責任」と解釈するように世論は誘導されている。民間の努力のみがそれを下支えしようと頑張っている。が、国策で経済成長率をマイナスにすることが日程に乗っているわけであるから、なんとも大変敵を相手にしてしまっている。

なぜそんな馬鹿げた政策がまかり通るのだ、というなかれ。原発にしてもその危険性が90年代に「原発震災」という言葉で明確に警告されてきいたにもかかわらず、対策は考慮されることがなかった。あるいは国会事故調が指摘した問題は、2000年に出版された高木仁三郎さんの『原発事故はなぜくりかえすのか』にはっきりと書かれ批判されている。
なのに事故が起きた後の今でも新たな安全策は導入されず、事故当事者たちが以前の日常を継続し、指摘された問題は他人事である。雑駁な結論になるがこれらの状況から推察されるのは決定的に土地と人間が根こぎになり、世界に汚染をさらに広げ、科学技術が衰退し、人口が減り、経済をどん底に陥れるにいたるまで、おそらくこれらの愚行は続くということである。したがって、来るべき大多数の(そしてなによりも自ら)のフルタイム難民化という最悪を粛々と想定し、その後を見据えることがどうしても必要である。

いかに次の社会を再構成しうるのか。思うに官邸のみならず日本の各地に広がったデモは再構成の基礎演習にあたる。孤立した難民ほど弱い存在はいないだろう。しかし難民は集まることで集団となり、社会を形成することができる。デモを単なる抗議活動と捉えるなかれ。あるいはそれを目配せとどこかに消えてしまう共感で終わらせるなかれ。集まることはコミュニティを形成することなのだ。思えばこの数十年の日本において、日本の人々は日本という国とむき出しの個人として向きあう状況が亢進し、中間集団が解体する過程であった。動員されずに集まることは、大きな反作用点のポテンシャルを持つ。隣人と仲間の再発見である。

原発事故はなぜくりかえすのか (岩波新書)

原発事故はなぜくりかえすのか (岩波新書)

*1:避難民の人たちも参加しているので一部は本物の難民である。

*2:アクティビストの心性をもつ人間が金曜のデモに参加してみて「なんじゃこりゃ」と思うのは、その実態が難民的なものであるにもかかわらず、運動として捉えているからではないか。

表象と代議制

無珍先生は10までは数えられる。なおかつ58だけはゴジュウハチと知っている。いつも駐車する場所が58番だからである。で、隣に59という数字が壁にかかれていたので無珍先生に「あれいくつ?」と聞いたら、ちゃんとゴジュウキュウ、と答えた。「無珍先生は天才だ!」と誉めたら「無珍は天才じゃないよ、無珍は無珍だよ」不満そうな顔で反論した。なにかそれに類する話。

2012年6月29日金曜日夕方に日本の首相官邸前で数万人規模の大飯原発再稼働反対デモが行われた*1。再稼働阻止という目標は達成されなかった。

前回述べたようにデモに参加することの第一の意味は個人的なものであるからして、かくなる人数の人間がおそらく人生初となる社会体験を行ったというのは、まあ、なんかそれだけで凄いことだ。加えて、表象と代表制という点において重大な意味がある。表象と代議制というと飛躍しているように思われるかも知れないが、英単語で考えると分かりやすい。表象はrepresentationである。代議士はrepresentative。ワタクシという一人の人間を表現representする手段はさまざま可能である。絵を描く、詩を読む、競技に参加する、楽器を奏でる、測定する、演ずる、踊る、睨む、叫ぶ、泣く、喋る、佇む、座る。これらのモロモロは表象であるが、代議制における代議士もまた、ワタクシの表象である。それはワタクシを表現する多様な手段の一形態に過ぎない。

先週述べたような書式システムの専制は、個人の表現手段の一つである代議制を弱体化させている。かくなる状況下にあるときに個人を近代社会という文脈で表象させる古典的な政治的手段がデモなのである。代議制の代わりに官邸前に立った、という表象。弱体化した代議制という表象に我慢できなくなり、官邸前に出現するという表象行為を行い、それが群衆という形に可視化されたことは、個人の表象の豊かさと創造性を圧倒的に示した・自覚したという点においてなによりも高く評価すべきなのである。これはヘレン・ケラーがはじめて水に触って「水!」とサリバン先生の掌中に何度も文字を書くことによって表象を発見した、という故事に呼応している。水はただの水である。が、水という表象は個人において常に発見される対象である。

こうした個人から社会へ、という立場で世の中をまず眺める私からすると、「官邸に突入すべきであった」「警察に迎合的であった」「主催者が自主解散した」といった、といった批判は的はずれである。まあ、私のアンテナが感応する点が「おお、ヘレン・ケラーにサリバン先生!」と上のようにズレているだけからかもしれんが、日本でもドイツでも警察に面と向かって殴られて呆然とした経験から鑑みるに、プロフェッショナルな国家暴力の実務レベルでの冷酷さに対していかにもナイーブだなあ、と思ったりする。できることならそれは避けるべきことなのだ。とくにデモを表象と捉える立場からすればわざわざ殴られるようなことはしないのが正しい。それを敗北と捉えるマッチョな向きもあるかもしれないが、60年代以降の学生運動にこりてセンチメートル単位で道路の幅を計測して群衆管理をシミュレーションしてしている警察を前に「とりあえず突入」はひとまず愚策であろう。

主催者が解散を呼びかけたことも問題ではない。なぜならば、やってきた人たちは動員された人間ではない。代議に失望し直議のために自分でやってきた人たちだからである。呼びかけに応じた、という事実は単に呼びかけ人の判断が受け入れられたということを示す以外のなにものでもない。あるいは「シングルイシュー」呉越同舟の問題。スローガンは確かに「再稼働反対」に集約される。が、実相においてひとりひとりが表現していることを眺めれば、シングルイシューという言葉では捉えることが不可能な多様な個人の表象が析出している。私はガーディアンの写真集を見て、この思いを深くした。かくなる実態を眺めれば「シングルイシュー」呉越同舟批判は、これまた的はずれである。イシューの実態は個人レベルまで分裂している。代表制への異議申立て、個人が国家に直接対峙する中抜き否定の表象、4万人ならば4万イシューズ、あるいはnイシューズという解釈に回収するほうが、より正しいのではないかと私は考える。集団がその個々の意見のあり方において無限に分裂していることで連続体を構成している、とでもいおうか。

代議制とデモが表象という行為において一元化されるということがより自明のものとなるには、やはり多くの老若男女がデモに参加すること、それが単に群衆としてなんども出現するということがキーになるだろう。書式システムの自壊を促すには代議制にダメだしをする個人の直議が街路上の占有体積として暴力的であるほどに多数であることを繰り返し示すべきなのだ。最近私は自分のパソコンのハードディスクをクラッシュさせた。諸々の書類はクラウドのどこかにあるので実害はなんだったのだろう、と逆に失ったものはなんであったのか思いあぐねるというなにをしているのかよくわからんことになった。官邸もしかり。官邸を壊して暴れたところでなにかがかわるわけではない。平和なデモの参加者にこんなことをいうと、「暴力ではない!」と怒られそうだが、群衆は存在自体が暴力的なのであり、国家暴力とバランスをとりうる力である。代議制とデモの一元化的理解はこのバランス下において自然なものとなる。

蛇足になるが私はどちらかというと代議士である田中康夫河野太郎がその代議士という表象を超越する場においてウロウロしていたことのほうがなんかなあ、という気分になった。ネットに挙げられるニュースで眺めただけなので他にも代議士はいたのかもしれない。なんかなあ、という気分になったのは、ヘレン・ケラーとサリバン先生の水の発見シーンの横におっさんがゴソゴソとあらわれて「レッドブルもありまっせー」とドヤ顔でのべているような気がしたから。もちろんこれは彼らの政治活動の内容に対する批判ではない。彼らはがんばっている。「私も一人の個人です」というならばまあそうだろうけどデリカシーの問題。

*1:デモ参加者数の推定においてかなり自信があるという往年の闘士にして「科学の子」矢作俊彦氏の推定数は4万人。私にはわからん。

官邸デモと書式システム

官邸を包囲するデモが毎週金曜日の夕方に行われ、週を経るごとに参集する人数がどんどん増えているのだそうである。私も東京にいたら出かけることだろう。デモというのは体感しないとわからないことがある。この点に関して5年前に書いたことがあるのでリンクする。

排除体積効果について

その場に存在することが、単にある一定の体積を占めるということにおいて意味を持つ、というこの状況はやはり体感しないとわからない。上の文章で書いたネオナチ締め出しの話は、排除体積効果として物理的な意味を持っていたが、そこまで科学的に美しい結果とならなくとも、抗議のその場に一定の体積を占めて一人の人間が存在することは、シュプレッヒコール連呼やさらには暴徒化といった存在を主張する行動以前にもっとも本質的で強力な抗議形態なのである。そこにいるだけで意味がある、というと、なにやら恋愛に目が眩んだ人間が口走りそうな台詞になるが、デモに参加する体験の意味は実に私的で直感的で肉体的なことだと私は思う。

官邸前で行われているデモの旗印は「原発の再稼働反対」である。この特定の点に関して私は官邸前のデモは何万人があつまろうがあまり意味を持たぬであろう、と思う。政治家の大部分、官僚、役人といった人々が、書式システムでしかなくなった行政と立法を駆動させることに恐るべき勤勉さで取り組んでおり、その駆動はもはや社会存続の価値とは無関係ではないか、と思えるほどになっている。別のいいかたをすれば、書式を埋め、書式システムを完遂するという行為において、そこに独自の観念的な社会が長らく運営され先鋭化しており、行政システムの担当者たちはその閉鎖された島宇宙の維持にコミットしている。彼らはそれを「現実」と呼んでおり、彼ら個人が「まずいな」と思うことがあったとしても、おそらくそれとは無関係に手続きは維持され先鋭化し自走している。

原子力行政もまたそうした書式システムの一部でしかない。書式システムの細かい穴埋めを行う上で、原発の再稼働は行政にとって手続き上必然なのであって、それ以外にはありえない。そのためにはどうしても原発は安全であり必要であるという判断が要請され、了解となり、「現実」となるのである。安全の実態がどうであるか、ということは無関係である。判断が逆転しているのだから。したがって何万人もの人がデモをし、たとえその情熱と存在が書式を埋める責務をおった人間の感情を動かしたとしても書式と書式システムの駆動とそのことが要請する手続きの「現実」はほぼ無関係な勤勉さとして進行する。それが原発事故のような形で人々の生活に本物の危機をもたらしても、書式システムは粛々と確実に駆動する… というのがこの一年私が目にしてきたことであった。

書式システムを別の角度から眺めよう。以下松岡正剛さんによるジョン・ラルストン・ソウル『官僚国家の崩壊』の読解から引用する。

iそもそも民主的な政府と合理的な行政が結びついたからこそ、ほぼこの2世紀のあいだに社会的なバランスが劇的に改善されたのである。jとはいえ、その過程で、なぜどのようにしてこの両者が提携するようになったかという実際的な認識が失われてしまった。その結果、両者の役割が逆転することになった。k管理することがしだいに目的と化し、民主政治の指導者はそれにしたがわざるをえないと思うようになった。

lその結果、民主政治の機能が衰えて、単なる手続きに堕してしま(った)。m効果と速度という技術的な道具のほうが価値があるとされるようになったのである。n合理的なメカニズムがこれほど容易に18世紀の哲学者の意図と正反対のことをするのに使われている。o言いかえると、社会全体のコンセンサスといった理念がむしばまれてきたのである。

p一つの国家で、また多くの国家間で、富と倫理がこのように操作されることに加え、完全にそれと平行する世界がのしてきた。金融世界である。qこの管理を欠いた書類上の経済がもたらしてきた影響は、社会に催眠術をかけるようなもので、それは企業買収の世界にあらわれている。

r現在は大いなるコンフォーミズム(体制順応主義)の時代である。西欧文明の歴史において、これほど絶対的なコンフォーミズムの時期はまずほかにないだろう。s精神、欲望、信仰、感情、直観、意志、経験――そのどれもがわれわれの社会の営みと関連していない。そのかわり、失敗した、罪をおかしたと言うと、われわれはそれを無意識のうちに非合理な衝動のせいにしている。

(しかしながら)t人間を全体的な存在としてとらえるわれわれの意識――つまり意識的な記憶――は徹底的に粉砕されたので、われわれはいかにして公の法人組織である当局をしてその行動の責任をとらせるかについて、何の考えももてない。(こんなことではおそらく)u詭弁と偽善の現代文明は、これからの10年間でその真価を問われるだろう。(そうでないのなら、せめて)v文明の真髄はスピードではなく、考えることに向かわなければならない。

(これまでは)w現代の解決策は、憲法と法律によって基準を設定することだった。xだが、憲法や法律は、われわれには容認しがたいほどに、それを管理する人の意志に支配される。(そこで、これからは)y社会全体として必要なのは、道徳を多様化することではなく、それを抽象化することである。zわれわれはいま、われわれ自身の過ちのなかにいるのだ。

そのようなわけで、私はデモが具体的に再稼働の決定を転覆させる、という点に関してペシミスティックである。再稼働の決定は、上に述べたような、あるいはジョン・ラスト・ソウルが「かんがえろ」と述べる自滅型システムの片鱗でしかない。昨今耳にする消費税増税という判断やら、科学者の人数だけは増大したのに2005年以降ガタ減りした出版論文数やら(大学にいる研究者たちが書式を埋めるのにますます忙しくなったという話をかねてより耳にする。彼らが書式システムの一部に併呑されつつある、というようにしか私には思えない)、私には同じこと、すなわち手続きが自己目的化したことの様々な側面であるように見える。自走する書式システムはそれが自壊するまで継続するだろうし、すでに変更可能な分岐点はすぎてしまった、と考える。もし変更を望むなら、デモは高度に戦略的である必要ーつまり真に政治的である必要ーがあるが、そうした戦略も見えない。

とはいえ。たとえ最悪の道が選択され国家がガタガタになり破綻したとしても、日本列島という土地に住んでいる人間は生活を継続する必要があり、その場を再建してゆく。この点においてデモというただそこに存在し一定の空間を占め社会を構成するという個別における本来の社会条件の実感は、粉砕されてしまった『人間を全体的な存在としてとらえるわれわれの意識』を少しでも復活させ、荒野となる社会を生き抜きながら何十年後かのもうすこしまともな社会を構成してゆく上で大いなる糧となるであろう、と私は思う。

理解という許容

われわれが避けねばならぬのは、「理解するよう努める」ということの罠である。つまり、低線量被曝の確率的な健康被害が決着のつかぬ議論となる主要な理由は、誰もがそれを「理解しよう」と努めることにある。そういった態度の紋切り型の一つに従えば、「何が起きているかを説明しようとすれば、少なくとも広島長崎のLSS調査の統計的な手法とその解釈を理解し、測定誤差や精度の理論、内部被曝の臓器モデルなどあれこれについて知識を得なければならない」ということになるが、放射線の健康に対する影響の「複雑さ」をこのように強制的に喚起させることが結局何に貢献するかといえば、健康被害に注がれる疫学的眼差し、つまりは集団レベルで記述された健康被害に対して観察者(同時に被害者)という個人が保っている距離を維持することに貢献するのである。言い換えるなら、福島原発の事故以後の出来事が証明しているのは、「理解することは許すことだ」というお定まりの知恵がもつ愚劣さなのだ。為さねばならぬのは、まさにその逆のことである。311後の日本においては、いわば逆転した現象学的還元を行ない、われわれに状況を「理解する」ことを許す夥しい科学的知見、意味の多様性を括弧に入れなければならない。「理解する」ことの誘惑にあらがい、TVの音を切ることと同じようなことを行なわなければならない。するとどうだ、声の支えを失ったブラウン管上の人物の動きは、意味のない馬鹿げた仕草に見えるではないか……。「理解力」のこのような一時的宙吊りを行なうことで初めて、311後の危機において政治的、経済的、イデオロギー的に問題となっているもの、すなわち、この危機を導いた政治的計算と戦略的諸決定の分析が可能になるのである。

「低線量被曝の健康に対する影響」というトピックはそれ自体が既にシニカルな距離を内蔵している。今日シニシズムはどのように機能するのか。フロイトはある手紙の中で、新婚者についての良く知られたジョークに言及している。自分の妻がどんな顔立ちで、どのくらい綺麗かを友人から尋ねられたとき、この結婚したての男は答えた。「そうだな、僕としては好きじゃないが、まあそれも趣味の問題だね」。この返答のパラドックスとはこうだ。ここでは主体が普遍性の観点を措定するふりをしているのだが、(にもかかわらず)この観点からみた場合、「好ましいということ」はある種の特異体質、ある種の偶然的な「病理的」特性として現われ、そのようなものとして、考慮に入れられていないのである。そして、言表行為を支えるこの「あるはずのない」場は、現在の「ポストモダン」人種差別においても同じく見出されるのだ。ドイツにおけるスキンヘッドのネオナチ信奉者は、外国人に対して暴力を振るう理由を尋ねられると、社会的流動性の減少、治安の悪化、父権の崩壊などを引き合いに出して、突然ソーシャル・ワーカーか社会学者か社会心理学者になったかのように語り始めるが、これこそ「メタ言語は存在しない」と言ったときにラカンが念頭に置いていたことである。スキンヘッドたちの主張することは、それが事実として正しいにも拘わらず、あるいはより正確には、事実として正しい限り、嘘なのである。犠牲者が自身についての客観的真実を伝えることが可能になる言表行為の自由で中立な場をスキンヘッドたちが占めるとき、彼らの主張は言っていることとは別のことを示すことになる。現代のシニシズムを特徴づけるのは言表行為のこのあるはずのない場なのであり、そこでイデオロギーは自分の手の内を見せ、それが機能する秘密を露にするが、それでもなお機能し続けるのだ。

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告白しよう。上の文章はジェジェクが書いた文章の一部を言葉を少々入れ替えて書きなおしたものである。元の文章はこちらにある。

アンダーグラウンド』、あるいは他の手段による詩の継続としての民族浄化
http://www.ntticc.or.jp/pub/ic_mag/ic018/intercity/zizek_J.html

横暴な車の運転を行う人間に対して「やめてください」と注意したところ「あなたが事故に遭う確率はたったこれだけです」と反論され、なだめられたとしよう。あなたは理解するだろうか?さらにはそれを眺めていた第三者の歩行者が歩み寄り、「そうです、事故のリスクなんて実に少ないんですよ、実は私は保険会社の統計部におりまして」「あなたも車に乗るでしょう。便利でしょう。救急車がなかったら死ぬかもしれない」などとあなたを説得し始めたとしよう。あなたの心は「もしかしたら自分は間違っていたかも」と揺らぎ始めるかもしれない。

被害者を「ステークホルダー」と呼ぶことへの強烈な違和感が私にはある。放射線管理区域で生活するには放射性物質健康被害に関する知識が必要である。が、その「理解」は危機を導いた政治的な状況に対する受容あるいは適応、すなわち「理解」=ステークホルダーという図式に容易に敷衍される。信念の対立、加害者と被害者という立場の絶対的な差を「カッコ入れ」によって可視化せねばならない。「カッコ入れ」をエセ科学と批判する向きもあるかと思うが、これは見当違いというしかないだろう。科学のカッコ入れは、科学の否定ではない。科学は厳密であればあるほど価値判断をすることが原理的に不可能になる。しつこいようだが、この点が理解出来ない人間がやまほどいるようだからもう一度くりかえす。科学のカッコ入れは、科学の否定ではない。「リスク」もそうだ。被害者として加害者にその行為の非道を昂然と指摘するならば、「リスク」を議論に含めてはいけない。

実戦的には次のようなことになるだろう。健康に対する影響やリスクはなるべく詳しく調べ、理解し、日々の暮らしにおける防護に活かせば良い。ただし、被害は被害である。たったこれだけしか死にません、としたり顔で言い募る加害者ないしはその翼賛者たちに対し、健康への影響の知見やリスクの多寡など知らないような涼しい顔で、「あなたは確かに加害者である」と主張すればよいのである。なお、ステークホルダーは日本語で「利害関係者」のことである。被ばく住民には原発事故による利はない。一方的な害を被るだけの被害者そのものである。さらには原発をめぐる社会の構造的な問題、たとえばその国内植民政策としての問題、あるいは原子力基本法の改訂によって先日から国の安全保障と名付けられることになった原子力という存在の問題に関しても、まずは「理解」を宙吊りにし個人の立場から憲法の定める生存権を侵害された被害者であることを明示することでしか根本的な批判ははじまらないだろう。