ある日、あなたが、長時間労働できなくなったら。〜「迷走する両立支援」を読みました〜 - kobeniの日記
http://d.hatena.ne.jp/kobeni_08/20100423/1272031425

片親で乳児を育てることになった私は、日本だったら研究職はあきらめなければなかっただろうな、と想像する。義理の妹がいまだに手伝ってくれているとはいえ、仕事の絶対量は確実に減った。予防接種やら熱出したやら、といったときに私は仕事を中座して病院にいき親権者として同意書などにサインせねばならない。流感であれば登園禁止になるので仕事を休んで家で面倒をみる。仕事をこれまた中座して子供の保育園の行事にも出席し、他のおかあさんたちとドイツ語で歌なぞうたう。それでもなお、仕事を続けられているのは、社会にそれをうけとめるだけの余裕があるからだと思う(個人の職業倫理としては仕事のクオリティに確実にかかわるので続けるべきかどうか、悩ましいところではあるが −夜中にする仕事が一番盛り上がっていたのだが、今では寝てしまうことがほとんどだ)。9時から17時できっかり研究を切り上げる大学の先生、院生に、日本の理系大学院からやってきた私は、なんて仕事をしない人たちなのだ、と驚いたけれども、子供を送り迎えする14年後の私はいままさにそうした生活をしている。送り迎え、といったって仕事場に付属の保育園だからラクなものだ。しかも家から車で15分である。日本の理系大学院というと、朝から夜半まで研究室に出ずっぱり、週末も日曜があるかないか、というのが通常だが、そうした状況で片親の私が乳児の子育てをどうやってすればいいのか、私には想像がつかない。たぶん、がんばっている片親の研究者も日本にいるのだろう。でもあまりに多忙で、声を上げることもできないだろうな、と思う。その直前のところに自分はいるので、想像ができるのだが、それはほぼ完全な社会的孤立だ。赤ん坊と向き合い、仕事にも忙殺されて世間に問題を訴えるような余裕もない。そうやっているうちにどんどん社会から切り離されていく。比較的時間にいくらか余裕のある私でさえ、以前みたいにまともにメールの返事をかけなくなった。電話ではなすことも、付き合いも激減、社会とのリンクが細くなれば、援けも得にくくなる。そうやって社会から切り離され、ましてやグローバリゼーションでアトム化、超個人化、非正規雇用化社会の中で孤立している親子が日本の見えないところにたくさんいるのではないか、と私は考える。そうした本当の意味で援けのひつような彼らの声は聞こえてこない、ということも忘れてはならないと思う。

[追記] すっかりわすれていたが、多いに関連する日記を書いていた。以下参照。
赤ん坊
http://d.hatena.ne.jp/kmiura/20071123#p1
ホームレス・老人・子供
http://d.hatena.ne.jp/kmiura/20070208#p1