治療法
以下の論、スケーリングの問題だなと思った。貧困という問題への対応に関する話題である。*1
目の前の貧困をどうにかしようという立場はまさに目前の問題、景気よくしなければ貧困はなくならない、というのは空間的に広くかつ中期的な話である。医療にたとえれば前者はピンポイントで修復を試みる西洋医学的ミクロな立場、後者は体全体の環境を整えるという東洋医学的マクロな立場だろう。べつに互いを排除しているわけではない。両方行えばそれでいい、と私は思う。東洋医学ファナティックな人間で”西洋医学は無効、エントラッセンは全体性をみていない”とか主張する人もいるけれど(最近ドイツでも多いぞ)、複数の階層で治療を行うというのが有効な手段ではないか。あるいは時間のスパンを考えれば、目の前でこの数ヶ月ネットカフェでしか寝ていない、餓死しそう、ないしは自死するしかない、という人間がいるときに、社会全体の景気をよくしなければなりません、とその人間の耳元でささやいてみても、単に意味がない。あるいは腰痛持ちに対する局所麻酔か運動推奨か、といった話である。あるいはたとえばガンの治療でインターフェロンの投与と食事療法を並行すればいいのに「食事療法こそ根本的解決、インターフェロンには意味がない」ってのはちょっとなあ。どちらを優先させるべきかという話でもあるのだけど、実感をもって極論をすれば、ガンで死にかけている患者に、「ガンの根本解決にはガン研究の進行を加速させることが必須なので、研究に投資をすることが先決です。治療はあとまわしにします」ということになる。だとしたら問題は
今の日本の「貧困」の主因は、言うまでもなく1991年以降の長期停滞です。ここをどうにかしない限り(具体的に言えば、リフレーションによりデマンドサイドを持ち上げることで自然失業率まで失業率を下げるしかないわけですが)、解決の糸口は見つかりません。にも関わらず、この類の方ほどリフレーションや経済成長には概して否定的なんですね。なぜでしょうか?
という前提、貧困のマクロな理由はともあれ、すなわち湯浅氏が「目の前のガン患者を救うためにガン研究投資は阻止すべしと主張している」に比すべき発言をしていると前提する点にあると思うのだけど、湯浅誠さんはこのような発言を実際に行っているのだろうか?私は雑誌のインタビューを一度読んだだけなので氏の発言に詳しいわけではないのだが、その発言を読んで立派な志の人がいるものだ、と思った(だからこんな擁護の記事を書きたくなったのだが)。経済成長を否定する発言は目にしなかったと思う。もし為しているならば確かに妙な話であるが、これは単なる印象にすぎないのではないか。
…というわけで、もやいのウェブサイトにある以下の発表記事をいろいろプリントアウトして昨晩夕飯がてら読んでみた。しかし、リフレや経済成長を否定するような内容は見かけなかった。「市場原理の拡大に歯止めをかけるため」という一文があったが(これは次の項で引用する)市場原理の拡大に歯止めをかけることがすなわち経済成長を否定していると評価するのだろうか(かもなあ)。
- セイフティネットのない時代とは 湯浅誠(PDF) 『マスコミ市民』2008年2月号
- 社会は支えあうもの−いま、その合意が求められている 湯浅誠(PDF) 『まなぶ』2007年3月号
- “極北”の地、北九州市保護行政が示す “福祉の未来” 湯浅誠(PDF) 『賃金と社会保障』第1437号(2007年3月上旬号)
- 「再チャレンジ」唱える空虚 湯浅誠(PDF) 『週刊東洋経済』2007年2月24日号
- 「貧困」に立ち向かう社会的ネットワークの形成を(上) 湯浅誠/河添誠(PDF) 『月刊東京』2007年3月
- 「貧困」に立ち向かう社会的ネットワークの形成を(下) 湯浅誠/河添誠(PDF) 『月刊東京』2007年4月
- 「格差ではなく貧困の議論を」(上) 湯浅誠(PDF) 『賃金と社会保障』第1428号(2006年10月下旬号)
- 「格差ではなく貧困の議論を」(下) 湯浅誠(PDF) 『賃金と社会保障』第1429号(2006年11月上旬号)
これら一連の文章や対談はほとんどが実践的なはなしなのだが、この項に合致する内容を「格差ではなく貧困の議論を(下)」から抜粋。
日々活動を積み重ねていく私たちの役割は、到達点としての政策的ビジョンを展開することではなく、状況を推し進めていくための”次の一手”を実践的に作りあげていくことにある。
(13ページ)
蛇足になるが
湯浅さんたちの運動で「貧困」を解決するのはまず無理なんですよ。経済政策を語らないのは別に構わないでしょう。ただし、「なんであの人たちは初めから負けると分かっている運動にのめり込んでいくのか?」が「分からない」ということです。
勝ち負けの問題だろうか*2?どちらかといえば正邪という軸の問題ではないのか。あるいは「勝ち負け」の時間のスケールの違いともいえるかもしれない。目の前にいる人間が生活保護を受けることが可能になること、あるいはアパートを借りることができるようになること、あるいは自殺を思いとどまらせることが成功したら「勝ち」という見方がある、ということでしかない。あるいは、目の前にいる人間に生きがいを感じさせることができたならば「勝ち」という見方もあるだろう(事実、「もやい」のウェブサイトを眺めるとそうしたことを目標にしているように思える)*3。
*1:スケーリングの混同という問題はプロの生物学者でもよくみかける話で、例を挙げると発生生物学者。生物システムの階層性がその設計原理の一部であるというのは生物を観察していればごく普通に直感できると思うのだが、理屈先行でシステムを再構成しようとする研究者はいきなり個体発生から遺伝子に一足飛びに階層を下げて、その関係性をメカニズムとして記述しようとする。要は遺伝子ータンパク質ー超分子構造−細胞内器官ー細胞ー多細胞ー組織ー器官ー個体なる精妙な階層性において遺伝子ー器官といった形式の制御系列の省略を行っているのである。この省略の結果研究の進行はロジックだけではなく賭博的な要素が多分に含まれることになる(成功してノーベル賞もらったりしているけど)。ゆえに発生生物学を専攻する院生は博打続きで先が見えない、ということで暗い表情をしている人間が実に多いのであるとひそかに思っている。よいニュースは最近ちゃんと細胞のレベルを間にかませる人が増えてきたことだが… コンピュータに置き換えて考えると、その故障を直すのにいきなりCPUをあけて顕微鏡で欠線箇所を探し始める、ぐらいのスケールの跳躍がある。ボードを差し替えてみるぐらいのスケールから始めるのが正攻法だろう
*2:上に引用したような意味で左翼が「勝った」ためしがあるだろうか。眺めれば左翼の歴史は敗北の歴史である。あるいは「勝った」としてもその瞬間から負け始めるのが革命のロジックではないか。付け加えるとこの負け続けに携わる人間が「岩波の社員」的「ブルジョア労働者」なのもまた歴史的に繰り返されてきたことであり、サルトルはそれを批判した:zarudora氏の記事 → 野生の言語。さらにはもうすこしさかのぼれば、レーニンも『何をなすべきか?』で革命の外部主体としてのブルジョアを肯定的な意味で語っているというのを最近読んだ本で知った(エリート主義ということで左翼の文脈ではこのレーニンの議論が否定的に扱われるとのことである)。揶揄を繰り返すならばサルトルを参照すればすむ。着目すべき現今の問題は我々がブルジョアである『かのように』生きているということではないか。『かのように』という目下の状況を映しこむ言葉は以下の常野氏の鋭い問題提起からの引用である。→和光大学YASUKUNIプリンスホテル、コケコッコーの政治と不正義のアウトソーシングについて - (元)登校拒否系
*3:こうした価値観は”ビ○グイシューは貧困を救わない(だろう)"といった評価の射程外になるが、ターミナルケアやクオリティ・オブ・ライフといった医療の現場で立ち上がった価値観からはより容易に捉えられるだろう。アマルティア・センは”貧困を所得のみから計る見解を批判して「貧困はたんに所得の低さというよりも、基本的な潜在能力が奪われた状態と見られなければならない」と定義した”そうである。『格差ではなく貧困の議論を』(上)より。