“弱者”の問題は既に医学では手に余る。そこには人類の生死に対する新たな思想が必要なのである。“弱者”は生死により密接な関係を持った人間であり、その去就が人類全体の生死の問題を尖鋭に体現する。ところが実際には、“弱者”を依然として保護し、生き永らえさせるだけの方針以上の動きはない。
 なぜなら、“弱者”の問題は「踏絵」だからである。政治的、社会的な“弱者”への差別、蔑視、隔離、抹殺、等々の誤まった対応は根強い。だから、たとえほんの少しでも“弱者”の存在を疑問視する見方は、正当な理由があったとしても、たちまち“弱者”差別、抹殺を後押しする結果になりかねない。そこで、「踏絵」を踏むことが出来ない。
 人間は、改めて生と死の意味合いを再検討すべき時期にある。自然のままに時を過ごすのではなく、総てに人工的な、生死の操作をも技術面では可能にしつつある状況の下、昔はただ死を恐れていただけの人間が、物理的にはかなり死を制御しはじめたのだから、当然、生と死への応接も変貌すべきであろう。
 それに必要不可欠な物は、本来的な生の価値を再確認することだが、僕の思うに、日本ではこの作業は非常に難しそうだ。既に書いたように、日本の歴史を見ると、日本人は長い間、“死に方”ばかりを教え込まれ、“生き方”に目覚めてから僅か三十年余り。しかもその“生き方”とは、生きる権利を獲得するに至るまでの紆余曲折に乏しい、降って湧いたような出現の仕方である。生の価値を再確認する、どころか、日本では、第一、生の価値を確認した経験さえあったのかどうか。
現在、人として学ぶべきこと / 大西 赤人
『岩波叢書「文化の現在」6 「生と死の弁証法」』岩波書店1980年12月

イタリアの料理は、調理にかかる時間にくらべて食べている時間が長くなくてはいけないというような話がある。