覗き雑感

シンジツバクロの欲動を認めるか、あるいは否定するかという形で議論をたてると、ちょっと難しいことになる。窃視、ピーピング・トム(死語か。たとえば風呂場をのぞく行為)から他人の日々の記録を日課のようにブラウズすること、マスメディアの報道の確度を検証すること、あるいは顕微鏡を覗く生物学者、天体の表層を望遠鏡でくまなく調べる天文学者まで、”眺める”ないしは”観る”という欲望には際限がない。悟りを開いた行者ならともかくも、観ることの欲望は際限なく下品でありなおかつ否定しようのないベクトルだ。あるいは情報の海に戯れ耽溺すること。
極端なことをいえば、建物の窓も下品だ。内から外を覗き、外から内を覗く欲動を煽る装置*1。思春期の若者が伏目がちになるのもかれらの上品さゆえなのであって、ジロジロものごとをながめるようになったときに人間は心臓に毛の生えたオヤジおばさんになる。シンジツバクロ欲動は、谷崎が語った自ら目をつぶす清冽にして凄烈なる行為をもって暗黒に突き落とされる・・・それでも盲目の主人公が暗黒を眺め生き続けるのがこの欲動の業の深さである。あるいは、自らの目をつぶすのではなく観る私の”立場を正当化するためになんらかの「社会正義」を偽装すること”*2。偽装したくなるのは、若さだ。絵を描いてでも清くありたい。そうした屈折した清さをはるか昔にどこかに忘れてしまった私なぞは低劣である。まったくどうしようもない。その欲動とバランスをかろうじて保てるかなと時々目を伏せてみるぐらいが関の山。
でもなあ、覗くならひとりでのぞけよ、とはいっておきたい。覗きの孤独さと非対称性の強度はそんなに耐えられぬものだろうか。群れなくてはできないのか。おい、おまえ、これみろよすげえぞ、ほんとだすげえ、と首をならべて風呂場を覗き込み、我彼の行為を相互に認証しあうことで安心する。そのさまは電線にならぶスズメのようにいじらしくさえあるが、さらにはエスカレートして、風呂に入るのがいけないのだ、そうだそうだ、とまでいいだす。これは下品に加えた弱さの発露である。卑怯ともいう。覗きはみずからがデバガメであることをわきまえよ*3。あるいはそれができぬというならば、ひとり玄関のベルをならして名をなのり、「風呂に入るのはいけません。なぜなら私が覗いてしまうので」と堂々と正義の味方として宣言せよ。そうなればもはやその正義の味方はデバガメではない。死ぬ死ぬ詐欺にかぎった話ではないが、このところのシンジツバクロ風潮にたいしてそう思う。

*1:ソーシャルブックマークの功罪もここにあるだろう。それは窓なのであり、本来フラットな情報の世界に外と内を生じさせる窓だ。ひとりでこっそり覗く、からみんなでわいわいがやがや覗く、へ。窓をうがつのは悪いことではない。よいことであさえあるかもしれない。でもこの”わいわい”がとても卑劣な方向にドリフトするときがある。

*2:それが自己実現であるかどうかはさしおいて

*3:こんな風に書くと、”風呂覗きをしていることを告白”なんてどこかでいわれそうなのがまたなんていうか