ワールドカップ

これまでのワールドカップ(98年のフランス、02年の韓国日本ワールドカップはドイツで眺めた)と違ってやたらとドイツの国旗が掲げられている。なにしろポストナチス時代の名残で、国旗を掲げたり国歌を歌うことが極力避けられてきたという事情があるので、ドイツの旗をくくりつけて走っている乗用車やタクシーを見ていると時代が変わったんだなあ、なんておもってしまう。巷のニュースでもこの「新しい現象」が結構な話題になっていて「タブーではなくなったのか」といったしかめっつらの議論が行われたりしている。街頭インタビューの回答は単純なもので「他の国が自分の旗を振っているからオレタチがやってもいいじゃん」といった内容が多い。開催当事国だから盛り上がっている、という解釈もあるが、それだけではなくこうした意識の変化は国境を越えた人の移動が盛んになっていることや、メディアの発達の反動でどこの国でもナショナリスティックな気分が醸造しつつあることの反映なんだろうな、と私は思ったりする。あるいは単に時間がたった、ということかもしれない。

日本にしても敗戦国である。だからドイツと同じような国旗国歌のタブーがある(あった?)のは日本語が読める人間だったらだれでも知っているだろう。日の丸を掲げたり君が代を歌ったりする、ということは「かつての国家主義の復活」というわけである。国旗掲揚国歌斉唱自体が「主義」ということになるからだ。逆の立場が昨今の「愛国心通信簿」なり、卒業式で君が代を歌わなかったり日の丸に最敬礼しない教官は処分する、といった極端な話である。文部科学省や一部国会議員はこれを称して「自然な愛国心の醸成」とかのたまっているが、こいつらナショナリズムパトリオティズムの区別もつかんのだなあ、と私はあきれる。

それはともかく、国民国家とはそれ自体がイデオロギーである。そのナショナリズムイデオロギーを押し付けるという国家行政 eg 愛国心通信簿は理屈としては筋が通っている。したがってそうした強制に反対するのであれば、国家主義の復活阻止」、あるいは「軍靴の足跡が」といった反対の仕方ではなく今の国民国家そのものに批判を加えるとことからはじめる必要がある。

人は誰でも枠組みを与えられることを好む。「血液型による性格の分類」ないし「性格心理テスト」といった自分の性格をテキストで与えてくれるような情況を人が好むのは、その内容が正確でありなんらかを言い当ててくれるから、ということではない。それよりも、よりどころのないワタクシになんらかの枠組みを与えてくれる、という点がポイントなのである。かくも人々は不安で揺らいでいるのであり、ワタシを枠に嵌めて、という欲望が常に存在しているのだ。ワールドカップという装置も一緒だ。「国」を人格の一部として与えてくれる、という機能が備わっており、普段は手に取るように眺めることのできぬ「国」がそこに立ち現れる。ナショナリストにとってこれほどのプロパガンダはないだろうな、と私は思う。

関係して、"Pledge"のことを思い出していた。ドイツや日本と違ってより国家主義的なアメリカの場合である。小学校では毎朝教室の壁に掲げられた星条旗にプレッジ"pledge"する。胸に手を当てて、次のような言葉を唱和するのである。

I pledge allegiance to the Flag of the United States of America, and to the Republic for which it stands: one Nation under God, indivisible, With Liberty and Justice for all.


私は登校初日のことをよく覚えている。いっせいに起立して星条旗に向かって唱和である。セリフがわからない、とかあわてながら口をもぐもぐ動かした。正確には「Pledge of Allegiance」という。強制かというとそうでもなくて、担任の先生によって違っていた。隣の教室のベトナム帰りの先生は、決してやらせなかった(以前この話は書いたので繰り返しになる。)。このあたり柔軟でよいなあ、と思うのだがこれも25年も前の話なので、今はどうなっているのか知らない。ブッシュ・ジュニア以降、特にイラク侵略開始以来、愛国心の強制が米国ではスタンダードになりつつあり、国家主義に反対の立場の教官はネットを通じて告発することが奨励されたりしている。事情はかなり変化しているだろう。

「Pledge of Allegiance」の原文を探そうと思ってちょっとウェブを見てみたら、この文章は1954年にアイゼンハワーが確定したものだそうで(赤狩りと同時進行の愛国キャンペーンだったのだろう)、最初に流布された内容は次のようなものである。

I pledge allegiance to my Flag, and to the Republic for which it stands: one Nation indivisible, With Liberty and Justice for all.

学校にこの文章が配られたのは、コロンブスによる新大陸発見400年記念行事のキャンペーンの一環であり1892年のことである。当時移民の大量流入が起きていた米国で、愛国心を啓発するためだったとのことである。誰がこの文章を起草したのか、というのはわかっていない。"The Youth Companion"という”Pledge of Allegiance”をはじめて活字にした啓蒙本の出版社と、その編集者の名前だけが残っている。それはともかくも、この"Pledge"が移民の大量流入と同期して始まった、という点は今の流動する世界の状況に似ている。なお目下流通しているプレッジとちがって、この第一版のプレッジには「神」や「アメリカ合衆国」といった単語がない。*1

参照リンク:The Pledge of Allegiance to the United States Flag

*1:ちなみに"one nation under God"の部分は後にFunkadelicのジョージクリントンがアフリカ系の市民権運動の流れで"one nation under a Groove"ともじった部分でもある。