フォーサイス05年新作

フランクフルト当局の予算カットでドレスデンへと去っていったフォーサイスのダンスカンパニー、古巣でも新作の公演をするというので、いそいそと出かけた。オペラではなく、ボッケンハイマー倉庫が会場。倉庫とはいってもとても内部はきれいに改装してあって、立派な舞台である。座席を予約することができないので、開場とともに観客同士の醜く熾烈な座席の争奪が起きるのだが、今回は前列寄りのど真ん中に座ることができ、長大な奥行きが特徴的な舞台と踊り手たちの配置を、さながら遠近法の見本のように眺めることができた。壁も床もほぼ一色で統一されているので、色鮮やかな衣装をまとった踊り手たちの位置は、前後というだけではなく上下に移動しているようにも錯覚できてしまう。
三部構成、とても明確な社会メッセージのある、全体に一貫した舞台だった。プログラムには三部構成、とだけ書かれており、タイトルは与えられていなかった。
第一部、フォーサイスに典型的な、奥行きのある舞台のそこここであたかもそれぞれ独自の運動であるかのように展開される個々のストーリー。であるが、複眼的にみているとそれが精緻に空間構成された結果であることに気が付く。右手前の踊り手の動きが左はるか奥に位置している踊り手の動作と一瞬連動しては再び独立した動きへと分離する。踊り手は同時に何人も存在し、連動と乖離はそこここで起きているのだから、複眼的に、などと格好のいいことをいっても所詮私の眼は二つである。私のしらないところでもそうしたインターアクションとインデペンデンスが現れて、消えている、にちがいない。そうした仕草の連動と乖離の反復だけが起きているのではなく、第三項として「なにもしていない」という踊り手もいる。あるものは壁に対して頭をおしつけ、斜めに制止している。キーパーソンだったのは「ふらふらしているだけ」という女性だった。彼女はひたすら無気力にうろつき、ちからなく客席に目線をやったり、床につっぷしたりしている。彼女は連動でも乖離でも自閉でもなく、ひたすら無気力な存在だった。第一部に繰り返される、到来する暴力の予兆、それは時に壁に現れ消える短い英語のメッセージの中にちらりちらりと託される。"exlosion not enough too far to be heard" "army before this wall" "another explosion"... 連動と乖離と自閉と無気力はその予兆の中でdetermined chaosとして生じ、しかし終幕に至ってなにかに引き付けられるように踊り手たちは舞台奥に向かって背中を見せながら、ずるずると足並みをそろえて行進し、舞台は暗転する。
第二部に繰り返されるテーマは、遠達力とその誤差である。テクノロジーとしてのリモートなコミュニケーション、たとえばその小道具としてマイクロフォンがフィーチャーされる。舞台の右前部に置かれたマイクに向かって、左の遥か奥から踊り手がささやく。そのささやきをマイクが拾い、拡声されてスピーカーに至る。スピーカーから聞こえるのはむろん録音された声であり、その微妙なずれはごくわずかな居心地の悪さを私に生じさせる。あるいは、動作と同期して生じる派手な効果音。あるいは舞台を斜めに移動し、後戻りし、回転する一人の踊り手の動き、その両脇に並んで歩きながら模倣し、微小な遅れとその遅れを取り戻すための動きを繰り返す二人の踊り手。密接して向かい合い、互いに応答しあっているように見えながら、結局いらだたしいまでに決して触れ合うことなく踊り続ける二人。マイクロミスマッチ、とでもいいのだろうか。こうしたマイクロミスマッチの連続の中で、第一部に登場した無気力な女はやはり無気力に舞台を放浪し、つっぷし、ときに他の踊り手とクロスしかけるがその関係性は不毛に終わる。不快な印象は、非定期に突然消える舞台の照明と、脈絡なく幾度も生じる非常扉を乱暴に閉じる耳障りな音ともに極大に達する。非調和の不快感はいつしか不安に変わり、私は口の中にいつしか苦い味まで感じ始める。
第三部。ひたすら方程式を説明するかのように、動きと動きの関係性、こっちをひけばあっちがおされる、という説明を延々と静かに繰り返し説明する男がまず現れる。あまりに込み入ったその説明はもはや説明の体をなしていず、喋るそのことばそのものが永久運動であるかのようだ。第二部で導入された不快と不安ののちの、この間抜けな説明を呆けたように聞いているうちに、こんどは不快な音がすこしずつ音量を上げて迫り始める。遠くにきこえる爆発の音、それがだんだんと近づいてくる。徐々に音量を上げる爆発は、まもなく暴力的なまでの音量となり、不安はつんざくような音の暴力、その畏怖に吹き飛ばされていく。踊り手たちの動きももはや踊りではなく、ひゅるひゅると長く伸びる高音と、ひきつづく轟音に一斉にどよめき、緊張し、ゆかに一斉に突っ伏す。爆発の合間には方程式の男とはまた違う男の、間延びした役人口調の喋りが挿入される。"we came here not to harm you, but for our mission to make your life better","I'm sorry about you, but I think you need some care, are you OK?","our goal is not to destroy, but to restore your daily living""we have to follow our road map, narrow and simple"...役人が喋りかけるのは今や爆音の中でもなにごともないかのように椅子に座り込んだ無気力な女である。役人口調はきわめてやさしく、我々は君を助けに来たのだ、と繰り返す。しかし無気力な女は無気力なままであり、もはや動きもしない。一方で周りの踊り手達はつぎつぎに爆音に倒れる。やがて無気力な女は一人の男の踊り手に体を支えられ、操り運動のように踊り始める。役人口調は最後に、ああ、すまない、次のミッションがあって時間が押しているんだ、と去っていく。

第三部はあまりにわかりやすい内容なのだが、全体のコンテクストの中では単なるイラク侵略批判だけとは思えない。複雑な関係性、第一部の中でたち現れるような、見えるか見えないかのように繊細な関係性、そうした繊細さ、複雑さをあまりに簡単に破壊するのが暴力であり、そうした単純きわまりない粗暴さすべてに対する憎しみがメッセージだったのだ、と私は思う*1。だからこそ、この舞台にはタイトルさえついていなかったのだ。

*1:穿った見方かもしれないが、それはフォーサイスのダンスカンパニーを首にしたフランクフルト当局も同根だ。