村落共同体

前回コメント欄のid:svnseedsとの短いやり取りは、今後意識していく必要があるのではないか、と思った。

村上龍がオーガナイズしている超有名メール配信で、二年前のアフガン戦争のころ目からウロコの現地レポートをしていた元在カブール国連難民高等弁務事務所(UNHCR)の山本芳幸さんが、欧米を除くほとんどの世界は、村落的な共同体の価値観で構成されている、と指摘している(戦争と人道支援(2)「紛争再考」2004年4月25日付)。欧米が紛争を敢えて好むのに対して、その他の世界のほとんどは紛争を避ける村落的な交渉が基盤である、と言っている。

学生時代に英米で経験したのは、それとはまったく対極に位置する対立を奨励する文化であり、慢性的な紛争の巣と思われている南西アジアや中東アラブ諸国で私が見たものは、実は日本と同じような対立回避文化であった。ここで私は西洋と東洋、先進国と後進国、近代と前近代、あるいはキリスト教イスラム教のような対立軸を設け、一方から他方を糾弾することに関心はない。私がこのような文化的相違に関心を持たざる得なくなったのは、国際社会と総称される側から紛争に介入するという業務を続けるうちに、対立回避文化圏の紛争解決に対立奨励文化圏の紛争解決システムを持ちこんでいるという事実に気付かざるを得なくなったからだ。

山本さんはここで、欧米は単に紛争という方法論を、そもそも紛争のない世界に輸出しているのではないか、と指摘している。山本さん自身は元国連の人間であって、欧米の対立尊重世界観に立脚して仕事していたことはいうまでもないが、そうした時に国連の人間が個人的には迷いながらも走りすごしてしまう、として実に丁寧に説明してくれている。アフガニスタンの村落間で、揉め事があった時の、長老同士の話し合いの様子も綴られている。長くなるが引用する。

それでは、上記のような暴力制御装置を持たない社会は、紛争に明け暮れて慢性的な社会構造の破綻に直面するか、もしくは停滞し続けるか、2つの選択肢しか持たないのだろうか。そうではないだろう。アフガニスタンの伝統的村落が選択したオプションは、紛争を徹底的に不可視化することであったと思う。これは表面的には徹底的に対立(confrontation )を回避していると見える。しかし、まったく争点の発生しない社会はあり得ない。人間が複数存在すれば常に潜在的に紛争が存在する。アフガニスタンの伝統的村落においても、山林の利用権や水利権などに関して人々はもめ続けてきたと言っていいだろう。

 彼らはそのような争いごとが発生すると、長老たちの集まりを開く。白髭の長老たちは地べたに敷かれた絨毯の上に輪になって座り、茶を飲み、時候の挨拶を交わし、それぞれの家族の健康について尋ね、今年の田畑の収穫について語り始める。何が争点であるのか、そもそもなぜそこに集まったのか、そんな野暮なことをいきなり切り出すほど未熟な長老はそこにはいない。彼らはそうやって何時間も茶を飲みながら、親交を暖める。そして、おそらく一日目はこの世には平和以外の何も存在しないかのように長老たちは帰途につくだろう。このような会合(シューラもしくはジルガ)が
何日続くかは誰にも分からない。それは、長老たちの器量と問題の性質に依る。

 もちろん、やがてこの会合は婉曲に、かつ漸次的に問題に迫っていく。それは長老の誰一人の面子も傷つけないように細心の注意を払って行われる。そこで最重要視されている価値はおそらく効率とは対極にあるものだろう。はっきりしているのは、長老たちすべてが合意するオプションが発見されるまで、この会合は続くということである。交渉決裂のような事態は決して放置されない。この会合が終了するのは長老たち全員の合意(consensus)が成立した時以外にはあり得ない。

ここで私は、昔日の日本における寄り合い、を思い出す。日本の寄り合いにおいても、基本的な原則は全会一致、であった。一人でも反対する人間がいたら、決議はない。なにをいいたいわけではないが、紛争をもって交渉とする、という世界と紛争を回避する、という文化があり、近代国家はその存立要件として前者なのである、ということをまずは考えておかなければいけない。丸山真男はかつて、前者の立場から国民なる存在を地に付かせようと啓蒙活動にいそしんでいたわけであり、そこに戦後ニッポン知識人の鋳型がある。近代主義者は、なんとしても前者、なわけだ。これはまあ、そうゆうこと、なのである。

私自身の感じで、寄り合いなんて暑苦しくて、と思う。でもこのところの議論のさまざまな断片を思い返せば(id:MANGAMEGAMONDOのapoさんもこのことに触れている)、近代国家そのもの、今の日本の明文化されたシステムと、日本のホンネシステムの姿そのものを引き比べてみるのもよいのではないか。そして選ぶこと、よりよい明文化は可能なはずである。

ちなみにこれは結論ではない。ましてや、村落共同体はマッタリしていてサイコー、ということでもない。イエと世間の共同体圧力がよい、なんて私は思わない。一方で近代国家は近代国家たるべし、ということの一本槍だけでもアホですね、ということなのだ。思考停止はいけない。考えゆくべき重大テーマの一つである。