ムラと村

村落共同体とは本来いかなるものであるのか。日本という国はムラだ、と言い捨ててもいいのか。つい最近友人からもらったメールを読んでそんなことを考える。以下はその友人のメールの抜粋である。個人的な部分に関しては省いた。なお、掲載は了解を得ている。

 個人的な関わりからいうと、イラクで拘束されていた三人の人質のうち一人、フリーカメラマンの郡山さんが宮崎県出身だったため、自衛隊の撤退期限とされていた3日目に現地入りし、その後解放されるまでの約一週間、実家の表情を取材すべく張りついていた。といっても母親は東京に行ってしまっておらず、実家では弟と年老いた祖母が留守番をしているような状態だったので、さしてやることもなく、満開だった桜の花がひとひらふたひら散りゆき、やがて鮮やな緑を一斉に芽吹かせるさまをぼんやり仰ぎ眺めたりしていた。

 実家には様々な人が訪ねてきた。郡山さんの出身小学校の生徒は千羽鶴を届けにやって来た。翌日には優等生を絵に描いたような出身中学の女子生徒会長が、そしてさらにその翌日にはローカルニュースでたぶん知ったんだろう近所のオバチャンたちが、やはり千羽鶴を持ってやってきた。「総一郎君のために何かやってあげたかったんじゃ」という近所のオッチャンは自衛隊の即時撤退を求めて町内で集めた署名のコピーを届けにきたりもした。署名はまとめて小泉首相に送り付けるという。この様子を取材させてもらったあと、私も署名したい、と申し出ると「大勢来ているマスコミの人で署名をしたいと言ったのはあんたが初めてじゃ」といわれた。

 この“自衛隊撤退を求める”署名活動は、記事ではほとんど扱われることはなかった。扱われたとしても“人質の早期解放を求める”署名活動にすり替えられたりした。それを報じることはメディアにとっての不利益であるかのように。先日にはある自民党議員が「自衛隊イラク派遣に公然と反対していた人もいるらしい。そんな反政府、反日的分子のために数十億円もの血税を用いることは強烈な違和感、不快感を持たざるを得ない」などと言い放っている。ならば私も“反日的分子”だしkmiuraもそうだな。私は人質解放と自衛隊撤退を同次元で扱った文書に署名した。首相が武装勢力の要求を拒否したことについては同意するし、民主主義のルールに基づき自衛隊が派遣されているという事実は尊重する。で、このルールをよりどころにするならオッチャンたちの手によって宮崎の片田舎から細々と始まった署名活動が、いつか大きなうねりとなり、この国の民意の大勢を占めることがあったていいじゃないか、という淡い思いもあって、署名した。だがしかしこの署名活動の結末は、すでにその立ち上がりから宿命づけられてしまっていたようで、3人が無事解放されたらパッタリ終わってしまった。

 人質事件発生当初、小泉首相が即座に「自衛隊は撤退させない」と明言したとき、「あぁもうこれで3人は生きて帰れないだろう」と正直思った。金銭目的の誘拐事件であれば交渉もあり得るが今回はそうじゃない。ところがその後の政府による様々なレベルに対する働き掛けが功を奏し、人質は解放された。家族の懸命なアピールをイラク国内に伝えたアルジャジーラの報道もあったし、中東各国のメディアやNGOに3人の活動に理解を求める電子メールを送りつけ、最終的に犯人グループに届けようとサイバーアクションを起こした人々もいた。近所のオバチャンは鶴を折り、オッチャンは署名を集めた。

−そのとき自分は何をしていたか?−

ボーッと桜の樹を眺めていただけだった。

 3人の無事解放に(自分の無為は棚に上げ)「日本も捨てたモノじゃないな」と思ったのもつかの間、3人に対し政府首脳が発した言葉の端々には先の自民党議員に相通じる冷淡さがあった。国の退避勧告を無視して危険地帯に入ったのは自分の責任だろう、こんなに迷惑をかけやがって、それなのにまだイラクで活動したいというのか、いいかげんにしろ…。人質の一人、高遠さんが言ったと伝えられる「今後もイラクで活動したい」発言は、やっと助け出した日本政府にとっては迷惑以外の何ものでもなかったのかもしれない。が、果たして戦時下イラクストリートチルドレン達がこの言葉を聞いたならどう感じただろうか。また彼らを拘束していた武装勢力、あるいはこれから日本人を拉致しようと企んでいた一味が聞いていたとしたなら…? 彼女はあのような恐怖に遭いながらも、なお忠実に自分の信念を貫き通そうした。その意味では命をかけて「自己責任」を全うしようとした“サムライ”ではなかったかとさえ思う。“刀”を持たなかったが為に多くの見当違いな批判に晒されはしたが。日本に強制送還することで意志完遂の自由を奪っておきながら「自己責任」を声高に振りかざす批判は、相当的外れのように感じる。

そう、村落共同体、という言葉から私が思い浮かべるのはおそらくこうした近所のオッチャンやオバチャンの姿である。理由はともあれ、仲間の身の心配をする人々。実家に戻ってきたフリーカメラマンを、よかった、と思いつつも少々腫れ物にでも触るように眺める人々。そこにヒステリックな糾弾はあるだろうか?60万円(になったそうだが)払え、といいつのるだろうか。日本という国はムラだ、と言い放つときに、そこにはどうしてもズレがある。村というにはあまりにムラらしくない現実の人間の存在を無視した精神共同体が今そこにあるからだ。