ラップトップの中のファイルを整理していたら、DIVXのファイルを発見。メル・ギブソン主演の「パトリオット」。2000年発表、アメリカの独立運動の話である。未見なので、最初の部分をみていたら、そのまま最後まで見てしまった。久しぶりにとても露骨な国威発揚映画を見た。おかげで寝るのが5時になってしまった。眠い。それはともかく、映画のことで一言書いておきたい、と思った。戦闘シーンは、特に最初の方でメル・ギブソンが年端のいかぬ息子二人に銃で援護させながら、20人のイギリス人部隊を殲滅させる場面は、テンポのよいカンフー映画のようでよかったのだが、話が展開するにしたがって戦闘が大規模になり、うそくさくなって、ダレてゆく。

国威発揚映画に典型的な、家族の死と残った家族を守るために武器を手に立ち上がる男たち、といったモチーフは、詳しく説明するまでもない。家族というミクロな社会単位が、国家というマクロな社会単位に、感情の激発というメディアを通して接続されるのだ。あるいは自由なアメリカを夢見て独立戦争に参加する黒人奴隷。一年間、兵士として戦えば自由市民として認められることを理由に銃をとるこの黒人奴隷は、一年がすぎても自由な国、という理念のため
にたたかう...あまりにも明白な設定だ。現実に今イラクに駐留する米軍の多くが、同じように米国市民権を得るために兵役に就いているのだから。

でもそんなことではなくて、私が注目すべきなのは、メル・ギブソンが常に使っていた武器だと感じた。白兵戦になるとメルギブソンが手にとるのが、背中にくくりつけたトマホーク。トマホークといえば、ネイティブ・アメリカンの伝統的な武器である。「パトリオット」では原住民とアメリカ、という点が同じ地平に並置されており、メル・ギブソンはイギリスの植民地アメリカに住むいわば新しい原住民なのである。追い出されるのは英国軍だ。新しい原住民であることの正当性、それがトマ・ホークを携えるメル・ギブソンとして登場する。

原住民を殺戮したアメリカ人が手に取る武器が、原住民の武器である、というこの欺瞞的な構図は、日本刀を振り回す元騎兵隊のトムクルーズ(「ザ・ラスト・サムライ」)でも踏襲されている(先日このことは書いた)。原住民の武器を振り回す主人公、これが国威発揚の要素の一つとなるのはなぜなのか。ちなみにこのトマ・ホークはメル・ギブソンがその昔不屈のヒーローとして闘った植民地戦争のなごりである、というエピソードが挿入されるだけで、あくまでも脇役である。でも私は決定的に重要だと思う。

この原住民の武器の活用、ということで私が思うのが、アメリカの理念だ。周辺にある別の理念を飲み込みながらどんどん肥大していく、という常なる運動がその基礎にある。飲み込む過程ではアメリカの理念と、原住民の存在との間に闘争が起こり、たくさんの人間が死ぬ。客観的に見ればそれはたんなる人殺し、あるいは虐殺なのである。でも原住民を殺すことはアメリカにとって、たんなる人殺しではない。アメリカの理念にとって、これは正当性のある犠牲なのであり、アメリカという国家にとって必要な要素でありさえするのだ。

でもこれだけならば、アメリカの理念はとても単純な帝国主義にすぎないことになる。国家拡大の名目の元、殺人が正当化され、周辺を隷属させる、ということなのだから。一連の国威発揚映画は、この原住民の死の意味をさらに回収・再利用しようとする。そのために登場するのが原住民の伝統的な武器だ。それはあらたに加わった精神的な支柱として次のステップにおける「飲み込み」、あるいはさらなる肥大化を助けるために登場する。

そもそも、原住民はアメリカに反抗した。反侵略運動として闘い、あくまでも侵略者を排除しよう、とした。でも原住民は敗れ去り、沈黙する。もはや死者なのだから、アメリカの理念のさらなる肥大に賛成なのか、反対なのか問うことができない。遺志は浮遊している。誰のものでもない。しかし武器が残っている。アメリカの理念は、敗れた死者の武器を拾い上げ、次のステップにおけるアメリカ理念=肥大化に参画させる。そしてこの武器の再利用が、喜ばしい事態として死者に迎えられるであろうことを当然として疑わない。浮遊していた遺志は、いつのまにかアメリカナイズされてしまう。
原住民の武器を、アメリカの理念として、アメリカの運動の一部として再利用することで、原住民の死を栄誉ある死、理念のための犠牲者=国益として読み替えてしまうのだ。

なにやら、とても押し付けがましい。だけど、ここにアメリカの理念の中心があるのである。勝っても負けても、アメリカの理念が受け止める、あるいは吸収される、ということなのだ。人類史上最高の理念なのだから、それを喜ぶべきなのだ。それは肥大化し、拡張してゆくことに疑いをもたない運動である。ザ・ラストサムライはフィクションだが自衛隊イラク派兵は現実だ。映画からよみとれる理念からすればこれはアメリカにとってこの現実がどうしても必要なのだ。彼らにとって、自衛隊は沈黙してしまったサムライが遺した「原住民の武器」なのである。