先日id:flapjackさんのところのコメントに書いた人間集団と関係欲求のモデル化のことでカルト化に対抗するにはフマジメさしかないんじゃないか、というような、「だから?」とか「で?」とか言われそうな結論を書いた。

「だから?」の先に実は生物のシステムにおける「フマジメ=ゆらぎ」という一般化があって、フマジメさは階層的なシステムを保つための必要条件である、というようなことも書きたかったのだが、よく考えたら自分の仕事にあまりに近くなってしまう。だったらもっとマジメに書きたい。←矛盾している。

言行不一致というのもダメダメなので、簡単な説明だけすると、機械のような決定的システムと生物のシステムの違いのひとつが、「ゆらぎ」なのだ。「ゆらぎ」と言い出すと、マイナスイオンだの量子脳力学だのと一緒にされて「トンデモ」行きにされてしまいそうだが、そうでもないことはたぶん今時のネイチャーやサイエンスをフォローしている人だったらうなずいてくれると思う。ナノテクはゆらぎをいかに利用するか、という話なっていく道筋がみえるからである。

そもそも社会における構成要素の「ゆらぎ」というのは考えられてきたことではなかったか。マルクスの博士論文は「デモクリトスエピクロスの自然哲学の相違」だったそうである。私は読んだわけではなく、柄谷行人の「トランスクリティーク」で引用・解釈されていた部分に、たぶん柄谷行人とは違った意味でおお、と思ってしまった。端的に言えば、柄谷行人のいう「トランスクリティーク」とは日本語に翻訳すれば「フマジメ批評」なのではないか、ということだ。

デモクリトスの決定的に振舞う要素と違い、エピクロスの要素は常に偏差を抱えている。軌道からずれていってしまうのだ、という部分である。うろおぼえで申し訳ないが、この偏差、ずれていくこと、ゆらぎ、この点に生物システムの鍵が秘められていると顕微鏡画像を眺めながら私も思っている。たぶん関係欲求をポテンシャルとする人間集団も同じことなのではないか。