先日id:Ririkaさんのコメント欄で話がずれてid:windvalleyさんとクンデラの話になりかけていた。クンデラ永劫回帰を信じているのか、というようなid:windvalleyさんの発題だったんだけど、そのことでつらつらあっちこっちウェブサイトを辿ってみたので、そのメモ。

松岡正剛さんが、「存在の耐えられない軽さ」に関して文章を書いている。[Link]
その中で、クンデラにとって小説を書くとはいかなることか、という一節。

クンデラは小説を「反叙情的な詩」ととらえている作家なのである。もともとは詩人だった。セルバンテスフローベールゴーゴリカフカジョイスゴンブロヴィッチブロッホセリーヌナボコフを評価しているのはそのためだ。

 しかしクンデラは、「小説」というものなど世界に存在しないと考えている。クンデラにとっては、フランス人の小説、チェコ人の小説、日本人の小説というものがあるだけなのだ(これはものすごく正しい)。そのうえで、作家というものは自分が「書こうとする世界の様式」を問いつづけるために書くのだと結論づける(これもものすごく正しいのに、なかなか実行されていないことだ)。加えて、何を言葉として選択したのかということを読者に伝える以外に、作家が読者に伝えるものなどないのだと宣言をする(まさにこの宣言がクンデラだ)。

クンデラに関するとても優れた作家論がでているらしい。2000年というからもう3年もたっているのだが、知らなかった。赤塚さんという人が書いている(ISBN:4891764236)。なにをいうにしても、これ読んでからじゃないと、ちょっとだめみたいです。この本、もしかして読みました?>id:windvalleyさん

うーん、それにしても上の松岡さんの意見は、クンデラにとってまさに言葉の選択が重要ということで、私がこの間コメントしたこととはちがうようだ。松岡さんの意見で行くと、クンデラがフランス人の翻訳者をメタメタに攻撃して結局自分自身でフランス語に翻訳して改訂版にした、という経緯は、あたらしい作品を書いた、ということになる。