これに関連して。

先日トヨタの会長奥田某と、元科技庁長官尾身某の対談を読んでいて私は苛立った。彼らの話題の中心は技術者や職人の「暗黙知」だった。マニュアルには書かれることのない微妙なコツ、それが日本の工業のクオリティを高めており、この点で日本は経済的に救われる、ということだった。暗黙知の反対語として「形式知」ということばを使っていた。これはマニュアルを指している。すなわち文章にして書きとめることのできる知識だ。私は、日本は暗黙知だけではないか、と反感を覚えた。形式知という呼び方からもわかるように、マニュアルはタテマエでしかないのだ。本当のことは書いていない。日本の社会ではそれが常識的である。法律もそうだ。法律という書かれた「形式」はあるが、それと生きることとは別なのである。書かれたこと、明らかなこと、すなわちパブリックなことはすべて虚構であるというコンセンサスさえあるように私には思えてしまう。暗黙知礼賛に私が苛立ってしまったのは、その問題ある状態をあたかも素晴らしいことであるかのようにたたえたのが日本の政治・経済のトップにある人間だからだ。職人が「そりゃ体でおぼえるしかねえよ」というならばまだしも、「形式」の頂点にいる人間二人がこんなことをいっているのだからしょうもない。不況だのなんだのと問題が山積みのようにもみえるが、実のところその問題を真面目に自分の問題であると考えることができない。端的にいってこれは想像力の欠如である。そしてこれはまた「形式」と「暗黙」の乖離でもある。世の中で起こっていること、テレビにうつっていることは「形式」だ。