言語が先か論理が先か、という話を考えることもなく時々思い出していて、かつて自分が脳の構造と哲学の論理構造の関係性を見出そうとしていたことも思い出した。その後実際の細胞のあまりにも動的でケイオティックでノイズにまみれた世界に直面してすっかりそんなことはどこかにすっとんでしまった。スタティックであるはずがないのだ。動的な構造は関係性として記述するしかありえず、しかしそれでも階層、というスケーリングを避けて通ることができない。スケールが違えば関係性は様相を一変させる。

それよりも動的な構造を数式ではない言葉で表現することは可能なのだろうか。ヘーゲルレーニンの運動(物理的な運動)に関する一説を呼んでいると、センテンスがいくつかのひとまとまりになって運動をしているような気分になることがある。これはそもそもヨーロッパ言語を基礎に数式が発展したからだ、と考えると通常の言語によって動的構造の、その少なくとも印象を与えることはできるような気がする。日本語で私が物理的な運動を感じるのは俳句や短歌の世界である。しかしこの場合、運動は循環的な動構造というよりも発散していく運動だ。自然を対象に詠嘆するスタイルが多いからだろうか。あるいは短いステートメントに限られるので循環するまでもなく読者が放り出されるからかもしれない。