「知の不良債権」 

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2001年の文章、ということは、まさに「固有名のフェティシズム」痴話が盛んだったときかもしれない。人物評をフルに内臓した文章はどこか下品だ、という印象を与える。批評が人物を離れて結果だけを議論することができないのならば、その価値は不労所得でしかない、とも私は思う。サイエンスの論文に対して、「おまえの論文は実存的ではない」やら、「密教的なやりとりが背後にあるだろう」といった批判はいくらでも可能だけど、そんなことは仕事をしなくてもできることだし、だから誰も関心をもたない。批評の問題は常に不労所得を得ることができるようなゴマカシが効くことだろう。

狭いニッポンでそんなに激しく罵りあうこともないだろうにねえ、と私は一時帰国して目にするさまざまな雑誌を読みながら思ったものだ。後の批評空間ウェブサイトにおける柄谷行人の「子犬」発言が簡潔にして際立った「メタ批評」だったものだから私は、あ、これはこれで一応終りなんだろうな、と思った。あえて今、この文章をウェブに再掲されたことの意味を考えると、なるほど、これはblog的である、ということに私は思い当たる。書き捨てられて忘れ去られていく状況の記録。たぶんそれだけだ。それとも、未だにこんなことやっているのかな?