蝦蟇の油

自然科学は自然を扱う。人間を扱わない。自然科学を仕事の基礎とする者は「人に対して嘘をつくことができる、しかしながら、この大地に向かっては、どうしても嘘がつけない。嘘は、地べたから撥ね返ってくる」。自然を扱うとは、そういうことです。
「人間は嘘をつくが、大地は水は嘘をつかない」@地を這う難破船
http://d.hatena.ne.jp/sk-44/20081124/1227472563

科学関係者だったら上の記事を読んで、おのれの職業の業の深さに思いを巡らせるべきである。なぜか。
実験なぞしていて一番難しいのはなにかというと、実はこの「地べたから撥ね返ってくる」部分である。実験結果を人に示して仮説を説得したりとか、研究費を申請したりとか、そんなことよりもなによりも、実験結果によって自分を説得させるというのが一番難しい。慣れてしまえばクラゲのように、ああ、わたしの予断はまちがっておりました、と現象に対してくねくねと頭を垂れることがかろうじてできるようにのだが、慣れてしまってからでも、あいかわらず自然にどつかれるタイミングはいつでも訪れる。
この結果は果たしてほんとうにかくなる解釈でよいのだろうか、という自分の中で起きる逡巡、そんなはずがないじゃないか、といった自問自答は実に孤独な作業なのである。他人にうそをつくのは簡単だが、自分にはうそがつけない。「自然との対話」とかいったら格好よく聞こえてしまうかもしれないが、まー、ワガママで利己的な自分を鏡で見せられるようで、蝦蟇の油売り、汗たーらたら、である。
そこにさくっと正解が与えられるならば汗たらたらになることもなく、さわやかに答えを手にして、颯爽と飲みにでかけることができる。でも正解がないことにあまんじて耐えつづけ、でも正解にむけてむむむ、と逡巡しつづけるのが科学的方法論なのである。なんでそんなことをやるのか?と聞くなかれ。謙虚なる科学者は「ものずきなもので」などと韜晦するかもしれない。しかし相変わらず科学者はモダニズムの最先端で科学的方法論を人々に説き続け、藁の中にもないピンを探し続ける汗たらたらのその蝦蟇のごとき姿勢「うーむ、ワタクシはやはりどこか間違っている」という態度にこそ、社会的意味があるのだろう。ましてや大いなる自然現象をバックに巫女になることでもない。科学で立国というコンセプトはわたしはあまりすきではない。しかし意味があるとしたならば本来その中心は儲かる儲からない以前にそうしたところにある… という事を理解するために上のリンク先を読まれることをおすすめする。極端に言えば正解を人に与えること、は科学者の仕事では本来ないのである。

『戦後日本におけるアメリカのソフト・パワー』

斎藤 貴男・評『戦後日本におけるアメリカのソフト・パワー』
http://mainichi.jp/enta/book/review/news/20081125org00m040026000c.html

なぜ日本はここまで対米従属なのか
http://www.amakiblog.com/archives/2008/11/25/#001255

松田武大阪大学教授の手によるその本は、1951年に「講和使節団」の一員として来日したロックフェラー3世が、東大を頂点とする日本の高等教育機関の序列化を図り、研究助成金をばら撒くことによって日本の指導的知識人たちが日米摩擦について口を閉ざすように仕向けて行った事を、明らかにしている、という。

戦後日本におけるアメリカのソフト・パワー―半永久的依存の起源

戦後日本におけるアメリカのソフト・パワー―半永久的依存の起源