少年時代
小学校のときの友人が自死したとの知らせを受けた。遺品の中にこのところ本人が書いていた子供向けの小説が何篇かみつかり、そのうちのひとつの主人公の名前がわたしの名前なのだそうである。だから知らせがきたのかもしれないが、小学校以来会っていない彼がなにを思ってわたしの名前を使ったのかと、考えるよしもないことを考えてしまう。無口でおとなしく繊細な垢抜けた少年だった。通年躁状態で喜怒哀楽の激しい洟たれのガキんちょだったわたしとは正反対だった。ずいぶんと一緒に遊んだが、にこにこしながらついてくるところばかりが思い出されてしまう。米国にいたときには何度か手紙のやりとりをしたものの、申し訳ないことに小学生以来ほとんど彼のことを思い出さなかった私が、思い出していたであろう彼に代わって、今度は彼のことを思いつづける。
書評
本の書評の結論部分は極端にいえばその本が<よいかわるいか>ということになるのだが、批評という点から考えれば書評は本来、独立したひとつの作品である。もちろんその本がなければ書評は生まれなかったわけであるが、たいして考えるまでもなく一冊の本にしても先行するさまざまな書物があって生まれるのだから、書評も本と同じくひとつの独立した文章である。
しかしながら、こうしたひとつの独立した文章である存在が、なにがしかを<よいかわるいか>という判断を他者へのサービスで行っているとその書評を書いている人間自身が考えたり、書評を読む人間が<読むか読まぬか>という判断基準となると期待してしまうと、書評は広告になる。日本のCD屋で棚に貼り付けられた、細かい字でずらずらと書き込まれた売込みの煽りコメントと一緒だ。くわえてその書評のブックマークで<買わないことにした>といったコメントを眺めると、書物とは買うか買わぬかという問題なのだろうか、とふつふつと湧き上がる違和感がどうにも隔靴痛痒なることしばし。人が<買う・買わぬ>の判断を行うための補助材料としてのサービスが書評、なのだろうか。
あるいは書評は広告、広告のクオリティという点までわたしが10歩ほど妥協したとしても、広告がダメだから本はきっとダメ、に類するコメントはシャンプーを作っている会社がそのコストの90パーセントを広告に使っているというどこぞで耳にした話を参考にすれば、ほんらい逆転はしているが、今の世界の価値基準そのもの。なにを否定することがあろうか。広告がダメ、というコメントに憤っているのであれば、これはもう、広告人として広告の戦略について勉強しなおすべきだろう。売れたんだからいいじゃん(棒読み)。
でもなんかちがうんじゃなかろうか。わたしの違和感。「本を紹介しているだけのエントリーに対して、どうして対象となっている本を読まずに、批判コメントや自分の意見を書く気が起きるのだろう」と書評へのコメントに憤る姿に延長する。わたしの感覚では、これは文章を書くという行為における自己矛盾である。本は読んでいないけど、あなたの書評の文章は読んだのだから。広い意味で「日本語のほろび」に心を巡らすならば「本を紹介しているだけのエントリー」的言行不一致行為にこそ、そのほころびが生じるのではないだろうか。