懐疑への拘泥

昨日の短い記事(『ラストサムライの虚妄』)のコメント欄について、ブックマークの方で”「知り合い」ソースの応酬”(id:welldefined)てな言葉があったり、"Web怪文書、つうのはこういう形で出回るんだろうなあ"(id:shidho)といったコメントがあったこともあり、ちょっと考えていて先日話題になっていた北田暁大さんを思い出した。どこで接続させればいいのかは今はわからない(というか、下まで書いてから思うが、関係がない)。

 だから、「メディアを疑う」というのは、実はそれほど容易な態度選択ではないのだ。「メディアを疑う」ことはつねに権力に対する距離を保証してくれるわけではない。むしろ、知らず知らずのうちに権力の掌のうえで躍らされる危険だって少なくない。「北朝鮮」へのステレオタイプを拡大再生産している一部の2ちゃんねらーが、「メディア・リテラシー教育は大切だ」などと言ったりすることもある。左派の本丸−とかれらが見る−『朝日新聞』を疑うリテラシーをかれらは後生大切にしている。「メディアを疑う」態度とは、良心的左派の専有物ではなく、右にも左にもブレる可能性を持つきわめて微妙なスタンスなのだ。「メディアを疑う」ことは、案外難しい。

「メディアを疑うこと」を疑うこと
http://www.shiojigyo.com/en/backnumber/0404/main.cfm

これに応答してrnaさんは

疑うという行為は不安を伴うものだ。単に否定するということではなく、疑問符を抱え込んだまま、なお正気を保って生きるということだ。しかしメディアリテラシーを称揚し「メディアを疑う」人たちの中には、むしろ認めたくない事を否定して安心するために「疑う」人が少なくない。それでは疑っていることにはならない。
以前 視点・論点まん延するニセメディアリテラシー」 で似たような事を書いた。二分法によりかかって白黒はっきりさせて安心することを「メディアリテラシー」だと思い違いしてはいけないということだ。

「疑う」を疑うことについて@児童小銃(20070626)
http://d.hatena.ne.jp/rna/20070626/p1

あるいはwalkeriさんは

 ありゃあメディア・リテラシーじゃなくてただのバイアスであります。そもそもメディア・リテラシーって何かってえと、literacyってだけあって*2能力なんですよね。朝日新聞を敵視するのは個人の自由ですが、それは能力とは言わない。単なる習慣です。で、その能力が向かう先が何かというと、実はマスメディアだけじゃなくて、結局は自分自身なんじゃないですかね。他のメディアに接したときに自分がどう反応してるか、それを意識しないメディア・リテラシーなんてありえないでしょう。だからここでおまえはタイラー・ダーデンの教えに立ち返らなければならない。
 メディア・リテラシーをおのれの偏見の言い訳に使ってはならない。
 メディア・リテラシーはたゆまぬ実践と克己の繰り返しによってのみ培われる。
 メディア・リテラシーは自己破壊の技術である。
というようなことを考えてたら、「メディア・リテラシーの18の基本原則」に大体同じことが書いてあったよちくしょう。もう帰る!

「メディアを疑うこと」を疑う@日々是魚を蹴る
http://d.hatena.ne.jp/walkeri/20040514

メディア・リテラシーということを「世の中に流通する情報を咀嚼する能力」とすれば、メディアはwords of mouth、噂話も含まれることになるし、あるいはタクシーの運転手との雑談も含まれることになる。私はしばし日常の雑談をここにリンクして、南米の友達はこんなこといっているんで、とか、タクシーの運転手がこんなこといっている、こうした見方があるんで、かくがくしかじかではないでしょうか、ということを書く。これに対して「それはきわめてサンプルの少ない情報であって、異なる可能性もあるんではないでしょうか」なる形式で改めて聞かれると、組織的なマーケティングないしは聞き取り調査をしたわけではないので、「それは確かめていないんでわかりません」となんか無意味な応答だな、とおもいつつも私は答えるしかない。たんなる噂話である可能性は常にあるし、それはこうした立ち話に限らずマスメディアもまたマスターマンがメディアリテラシーの基本概念とする「構成され、コード化された表現」なのだ。もちろん私の書く内容もそうである。全ての人間が沈黙するのがよいかもしれない。無、という絶対的に正しい無限階調の情報世界が確かにそこにはある*1
批判的であるというのはよいことなのだが、往々にして”メディア・リテラシーがおのれの偏見の言い訳に使われることがある”のもまた実に確からしい。というのも、このところ「従軍慰安婦を論じる」グループに関わっており、このグループでちょっと前まで某巨大掲示板嫌韓ネットワーカーと議論になった。懐疑という近代科学的方法論を我田引水で自論を援用するためだけに駆使しつつ相手の意見をこきおろし、偏見にみちた自論を連呼するという人間を目の前で見たから妙に北田さんのエッセイがツボだった。その”懐疑”のバイアスを指摘すると「あなたは真実を知りたくないのですか」「あなたの資料の読み方はまちがっているのです」とくる。この部分は疑わない。そういえば学生の頃声をかけてきたオウムをはじめとする新興宗教オルグも似たような感じだったなあ、と少々懐かしくなりながらも、実は「真実は隠されている」という嫌韓氏の熱い思いはどうやら現代日本の人間にどこか共通した思いなのではないか、などと考えはじめる。まあ、これは極端な例だ。
枚挙される情報と現実認識という二つの事象の間にはギャップがある。rnaさんがいうように、きわめて単純な世界把握はバイナリーだ。たとえば「正義とテロリズム」。階調をはしょってしまうこと。でも現実は複雑で、バイナリーで説明してしまうと間違った現実把握に至るということが往々にしてある。
それぞれの人のなかに蓄えることのできる情報量にはどうも差があるらしい。目の前に今ある情報をもとに、白か黒か、という判断をなす・あるいはなさねばならないというプログラミングのif-elseのような情報を溜め込まないタイプの条件判断的思考を眺めていると、もうすこしいろいろ情報を自分の中でためこんでから、結論をだせばいいのにな、とおもう。こうした思考は外部ネットワークに依拠してif-elseとノードからノードへ泳ぐことに似ている。ゆえに

疑うことに自足するメディア・リテラシー論は、さまざまな狡知でもって罠をしかけてくる権力に足元をすくわれかねない。

・・・のである。逆に情報を自分の中に貯め込んで、自分の中にネットワークを作る。その情報の網目というシステムが現実把握なのだ、と思う。その把握が言葉となって生み出されふたたび「構成され、コード化された表現」として自分で気がつく、あるいは世の中に日の目を見るのだ。情報量が単調増加の今の世の中、if-elseではオーバーロードである。そのために発明されたタームに「スルー」などという便利なものもある。でもスルーではなく、ごちゃごちゃなまま貯め込むのだ。

なお、walkeriさんがリンクした、メディア・リテラシーの18の基本原則は、リンクが切れているみたいなんで、下に別の場所からクリップしました。

*1:そうえば、昨日あのkmizusawaさんがはてなスターをクリックしてくれて、なるほどー、と思った。

レン・マスターマンの「メディア・リテラシー:18の基本原則」

1 メディア・リテラシーは重要で意義のある取り組みである。その中心的課題は多くの人が力をつけ(empowerment)、社会の民主主義的構造を強化することである。
2 メディア・リテラシーの基本概念は、「構成され、コード化された表現」(representation)ということである。メディアは媒介する。メディアは現実を反映しているのではなく、再構成し、提示している。メディアはシンボルや記号のシステムである。この原則を理解せずにメディア・リテラシーの取り組みを始めることはできない。この理解からすべてが始まる。
3 メディア・リテラシーは生涯を通した学習過程である。ゆえに、学ぶ者が強い動機を獲得することがその主要な目的である。
4 メディア・リテラシーは単にクリティカルな知力を養うだけでなく、クリティカルな主体性を養うことを目的とする。
5 メディア・リテラシーの方法は探究的である。特定の文化的価値を押し付けない。
6 メディア・リテラシーは今日的なトピックスを扱う。学ぶ者の生活状況に光を当てる。そうしながら「ここ」「今」を、歴史およびイデオロギーのより広範な問題の文脈でとらえる。
7 メディア・リテラシーの基本的概念(キーコンセプト)は分析のためのツゥールであって、別の内容を示すものではない。
8 メディア・リテラシーの内容は目的のための手段である。その目的は別の内容を提示することではなく、発展可能な分析手段の開発である。
9 メディア・リテラシーの効果は次の2つの基準で評価できる。
  1)学ぶ者が新しい事態に対して、クリティカルな思考をどの程度適用できるか
  2)学ぶ者が示す参与と動機の深さ
10 理想的には、メディア・リテラシーの評価は学ぶ者の形成的、総括的な自己評価である。
11 メディア・リテラシーは内省と対話の対象を提供することによって、教える者と教えられる者の関係を変える試みである。
12 メディア・リテラシーはその探究を討論によるのではなく、対話によって遂行する。
13 メディア・リテラシーの取り組みは、基本的に能動的で参加型である。参加することで、より開かれた民主主義的な教育の開発を促す。学ぶ者は自分の学習に責任を持ち、制御し、シラバスの作成に参加し、自らの学習に長期的視野を持つようになる。端的にいえば、メディア・リテラシーは新しいカリキュラムの導入であるとともに、新しい学び方の導入でもある。
14 メディア・リテラシーは互いに学びあうことを基本とする。グループを中心とする。個人は競争によって学ぶのではなく、グループ全体の洞察力とリソースによ って学ぶことができる。
15メディア・リテラシーは実践的批判と批判的実践からなる。文化的再生産(repr oduction)よりは、文化的批判を重視する。
16 メディア・リテラシーは包括的な過程である。理想的には学ぶ者、両親、メディアの専門家、教える者たちの新たな関係を築くものである。
17 メディア・リテラシーは絶えざる変化に深く関係している。常に変わりつつある 現実とともに進化しなければならない。
18 メディア・リテラシーを支えるのは、弁別的認識論(distinctive epistemology)である。既存の知識は単に教える者により伝えられたり、学ぶ者により「発見」されたりするのではない。それは始まりであり、目的ではない。メディア・リテラシーでは既存の知識はクリティカルな探究と対話の対象であり、この探究と対話から学ぶ者や教える者によって新しい知識が能動的に創り出されるのである。
(訳責 宮崎寿子・鈴木みどり
(鈴木氏注釈:「原文ではマスターマンは「メディア教育(media education)」という言葉を用いているが、これはクリティカルな視点を含む自発的かつ自立的学習を意味しており、「メディア教育」よりは本書でいう「メディア・リテラシー」により近い意味を持つことから、本訳ではこの語を「メディア・リテラシー」と訳出している。」
       出典「メディア・リテラシーを学ぶ人のために」(鈴木みどり著)