村の演芸会 ラテンバージョン

ブラジルおやじジョアン・ボスコキューバンジャズピアニスト、ゴンサロ・ルバルカバのライブを見に行ってきた。会場はうちから車で40分ほどの距離にある工場地帯の街。町内会の講堂のようなホールに、観客は200人ほどで満員。ジャズというと背広にイブニングドレスを着てしまうドイツ人と、胸をこれでもかとぎりぎりまでさらけだしたボスコ目当ての華やかなブラジル人女性たち、ラテン音楽クラブ系であろうよれよれした若者が交じり合うつりあいのまったくとれていない観客一同で、これまた見ものだった。
すでに満席だったので壁際にたっていたら、研究所の人間が結構いて、お、なんだお前もきたのか、と始まる前から酒盛り状態。しかもみな椅子に座れぬものだから結局10人近くで最前列の前の床に座り込んで車座ビール。並んでいる顔は、イタリア人、コスタリカ人、スイス人、スペイン人二人、ポルトガル人、フランス人二人。続けて手持ち無沙汰に立っていた若者たちもつづいてどんどん床に座り込む。そうこうしているうちにボスコのバンドとルバルカバが登場した。やんややんやの大喝采。村の演芸会状態である。
ボスコとルバルカバの競演なんてどうなることかと思っていたのだが、ルバルカバが終始ボスコをたてる演奏で、ステージのど真ん中の脚立に座ったジョアン・ボスコが小気味よいボサノバギターにひたすら渋い美声で歌いまくり、どうだこれでもかと男の私でもおお、とひきつけられるかっこいい顔のしわを見せ付けるステージのはじっこでぼそぼそっとルバルカバがピアノで合いの手をいれるという進行。観客のほうも圧倒的にジョアン・ボスコファンばかりである。ブラジル女性たちがきゃあきゃあと叫ぶ。ジャズを観にきたのに、という感じでスーツのおじさまおばさまが顔をしかめる。私はルバルカバのすぐ近くにあぐらをかいていたので演奏ぶりと表情がよく見えたのだが、ボスコが歌い終わり見事な間奏をいれつつこのまま展開するぞとルバルカバの肩に力が入ったその瞬間に(私もおもわず握るこぶしに力が入る)ボスコが見事なタイミングで介入、カブをとられたルバルカバが、ま、そうゆうことで、とちゃちゃっとバックに舞い戻り、わたしもあらららら、と力が抜けるというような場面がなんどもあった。でもこのボスコおやじのブラジル中のブラジルってな渋い声に包むようなギターの音色。まあ、この人のステージには誰もかないませんな。
そんなわけでかどうなのかしらないが、ゴンサロ・ルバルカバがソロで5曲ほど弾いた。飛び交うポルトガル語の掛け声にいちいちにこっと笑って答えながら短い4曲(「憧憬」の曲が一曲あったけどタイトルわすれた)を終えた後に十八番のComienzo。8年前はこの曲をなんと40分かけてソロで奔流奔馬のごとく弾いたのでこれまた最前列に座ってみていた私は椅子からずりおちそうになるぐらい感動したのだが、今回は実に枯れていながらかわいらしい雰囲気になおかつガタガタに崩して編曲していた。もとの曲をしらん人にはメロディが複雑な変拍子でこわれているのでなにをやっているのかわからないかもしれないのだが(事実ボスコファンにはあまり受けていなかった)、さんざんCDでいろいろなバージョンを聴いている私には感動ひとしお。

世界のアルゴリズム体操新着。

id:kmiura:20061012#p1の続き。世界に広がるアルゴリズム体操の輪のYoutube新着分など。

その1 米国カルフォルニア、サンタモニカの若者による演舞およびエディット。さらに進化したというか、マトリックスのミスタースミスというかなんというか。今回の一押し。最後まで見てください。ご本人のサイトは
http://sloppysteven.blogspot.com/

その2 米国のレキシントン。といってもレキシントンという街はあちらこちらにあるので、どれだかわからない。暗くてわかりにくい画像なのだが、土曜の夜に酔っ払って、との解説。酔ってもできる、ということでかなりの修練ぶりがうかがえる。

その3 ブラジル。高校とか大学の寮っぽい雰囲気。まんなかへんにいるのは日本人か日系人かな。

その4 不明。言葉をききとろうとしたが、日本語の歌詞をつぶやいているのでわからなかった。なんとなくヨーロッパかな。パソコン見ながら4人でやっているので、へたくそ。「もうすこし練習が必要」と本人の反省コメント。

その5 日本。中学生の文化祭かなにかかな。とてもかわいい。

その6 日本。”ミクシィのみなさんと一緒”とのことでなぜかフランス語でアップロードされている。輪になるフォーメーションはめずらしい。さすが盆踊りの国である。

その7 日本。曲がちがうではないかー。

というわけで、発祥もとの日本のみなさんにはもっと奮起していただきたいところである。

黙示の共謀

黙示というコミュニケーションのあり方はいわゆる「空気」に似ている。語ることなくしかしながら環境にかたらせる/りかいするというコミュニケーションであり、語る側にも理解する側にもなんらかの前提条件が共有され環境醸成がノンバーバルに行われることがコミュニケーション成立の鍵となる。極端な例で言えば、長年連れ添った夫婦。「おい」と夫が言った次の瞬間に妻がお茶の用意を始めるのが”黙示”である。反対語は明示。例にならっていえば、「私はお茶が飲みたいので、よかったらいれてくれませんか」。
黙示コミュニケーションは外部から見ればその成立過程がわかりにくい。ノンバーバルな情報と環境の文脈に基づいてコミュニケーションが行われるため、どの部分をコミュニケーションの要素としてピックアップしてよいか選択の基準が不明であり、部外者には理解できないからである。それでもなお黙示のコミュニケーションを読み解こうとする場合、とくにそれが成立し(給油ポットに向かって妻が動き始める)その結果であるイベント(お茶がはいる)が生じる前に(「おい」の時点)で解釈しようとすると多分に恣意性が混入する。「おい」は風呂に入りたいかもしれないし、お茶ではなく冷やかもしれないのである。はたまた実は「隣のスズキさんが回覧板を持ってきたから見ておいて」かもしれない。「おい」が通じなかったときは黙示のコミュニケーションは失敗である。「おい」ですまそうとした夫はわるいが、それだけでなにかを解釈しようとした妻もまたダメだ。かくして夫婦仲に秋風が吹く。などというまでもなくその夫婦の外部からの解釈はさらに輪をかけてあまたに可能であり、はっきりいえばなんでもアリ。
では、”黙示の共謀”とはいったいなにか。たとえば上記の夫婦が過激派の経歴をもつ有名な運動家夫婦であったとする。「おい」と夫が発した言葉は、外部からの恣意的な解釈によって「明日迫撃砲千代田区一番地を攻撃」と読み解かれる可能性もある。かくなる解釈をもって、「おい」は共謀となる。「黙示の共謀」であればさらに極端だ。彼らが夫婦であるということがすでに「黙示の共謀」であるとも解釈できるのである。
極端な例で考えてみた。というのもそうした非明示的な断罪を可能にする法律*1来週火曜日に日本で成立するらしいからである。むろん、このようにウェブでくだらぬことを書いているわれわれすべて、あるいは無断リンクをいくらでも張れるこの世界でその非明示的な内容とネットワークを「共謀」として解釈することも可能なのを忘れてはいけない。

*1:犯罪の国際化及び組織化並びに情報処理の高度化に対処するための刑法等の一部を改正する法律案。詳しくはこちらの”共謀罪”を参照に