レバノンの空爆は激化する。

ローマでの各国代表によるイスラエルレバノン戦争(戦争とはいってもあまりに一方的であるが)に対する停戦介入の模索が米国国務長官ライスのちゃぶ台返しにより失敗に終わった後イスラエルはさらに対ヒズボラ攻撃を継続する(すなわちレバノン爆撃)、と閣議で決議。要はお墨付きがついたようなものである。米国が供与するバンカーバスターが英国経由でイスラエルに空輸されはじめている。地下50メートルに基地網をつくりあげているヒズボラに対する攻撃のためであることは明らかだが、地表にいるレバノン一般人に対する被害はさらに甚大なものになる。
大沼安史さんのサイト経由。
参照: Bombs bound for Israel came via British airports

ガザ

見せしめのためにイスラエルによって狙い撃ちにされたパレスチナ・ガザのいくつもの橋について。パレスチナを目下取材中の土井さんの取材日記より。

これら破壊された複数の橋は、海外の援助で建設されたもののはずだ。援助したインフラがイスラエル軍に破壊され、まったくその援助が無駄になっても、支援国はイスラエルに抗議することも、補償を要求することもない。日本が一部を援助したパレスチナの空港が破壊され使用不能になったときもそうだ。その援助は私たちの税金なのだから、国民もそれが破壊され支援が無駄になったことに怒らなければならないはずなのに、まるで遠い世界の他人ごとだ。

土井敏邦さん 2006年夏・パレスチナ取材日記 06年7月25日付

積分的歴史観

同じぐらいの歳のベルリン出身の人に出会うと、私はかならず「1989年、壁が壊れたときになししてた?」と聴くことにしている。私は当時日本の大学の学部生で、壁に上って騒ぐ人々をテレビを通じて眺めていた。ベルリンの壁が壊れる、というのは冷戦の終結が近い、という象徴であったし、それだけではなくそれまで厳重に警備されていた”鉄のカーテン”がなしくずしになっていくのを眺めるのはとても興奮する話だったからである。テレビを見ていた私は、現場にいたらさぞかし面白いだろうなあ、と思っていた。そんなわけで、当時ベルリンにいた人にはどうしてもその質問をしたくなるのである。
かつての研究室の先輩は西ベルリン出身で、知り合ってすぐに質問した。「壁に上った」などのエキサイティングな話をきけるのかと思っていたら、「テレビを見てた」というので、少々失望した。今よくよく考えれば、壁の崩壊直後はなにが起こるかわからなかった。東ベルリン側の士官がとちくるって機銃掃射を勝手に始めたとしても不思議ではない状況だったのだ。テレビで眺めている、というのは君子危うきに近寄らず、の模範のようなものである。
このところ何度か顔をあわせている大学の薬学部の講師は、東ベルリンの出身だ、という。年齢は私と同じである。壁が壊れたときになにしてた?と聴くと、軍隊にいて国境警備をしていた、という。当時東ドイツの徴兵制は15ヶ月の軍務が課されていて、ちょうどその期間中だった。とはいえ、警備していた国境はベルリンからかなり離れた地点で、壁が壊れた、というのはラジオで知ったそうである。壁に上って歌を歌う様子なども報道されていたのだが、辺鄙な土地で兵務についていた彼の部隊は次の日も同じように警備にあたり、実質上国境の意味がなくなりつつある数ヶ月そのまま国境警備の歩哨をしていたのだそうだ。おれ、なにやってたんだろうね、と冗談めかして笑っていたが、兵役が終わってベルリンの実家に戻ったら、様子が一変していて浦島太郎のような気分だったそうである。
メディアで眺めていると、歴史のターニングポイントは劇的に現れる。しかし日常の中の歴史で感じる歴史の変化は実に微小だ。立ち消えになったが「防衛のための先制攻撃」などがまことしやかに議論されるようになった日本を眺めていると、これまた少しずつ日本も変質しているのだな、と思う。少しずつが意識されぬうちに変質は転換になっている。私がまだ日本に住んでいた10年前から比べれば、ひとことでいって「好戦的な国になった」のである。私もまた浦島太郎かもしれない。