断絶と欺瞞

北海道の泊原発が定期点検で2012年5月5日に停止してから、日本で運転している原子炉はゼロになっていたが、6月下旬には福井の大飯原発が再稼働する見込みである。再稼働によってすでに存在している放射性廃棄物の量が劇的に変化するわけではない。あるいは夏が終われば止めればよい、のかもしれない。そもそも崩壊熱という現象を考えれば、原子炉の「停止」はスイッチのオン・オフとは原理的にことなっている。

とはいえ再稼働には欺瞞がある。歴史的な欺瞞である。

私が注目するのはその安全性の検証が311以前と同じような建前を中心に行われたという点である。「絶対安全」という原子力発電を推進するための標語的な建前がいつしか本当のことになってしまい、政府関係者、電力会社の人間のほとんどがいつしか本気でそれを信じるようになった、というおそらく福島の事故の最も根幹にある病因が、311後にほとんど変更もなく通用している。311を踏まえて検証すべき膨大な設計・配置の欠陥、フェイルセーフの追加、緊急時の対応マニュアルの抜本的改訂など検討すべき項目はずらりと並んでいる。とはいえこれらの検証もなく、すべては311以前にそうであったように安全と判断される、らしい。というか、再稼働するために安全であると判断すべき、というこれまでにみられた判断基準の転置がこともなげに継続しているのである。

さらにいえば、その背景にある理由が「すでに膨大な投資をしたので後戻りはできない」という歴史にしろ個人にしろくりかえしみられる、あるいは教科書的とさえいえる破滅にまっしぐらパターンを踏襲しているのがこれまたおどろくべきことである。理性的な判断ではなく慣性への敗北だ。

原子炉が実用的な発電を開始したのは1954年であるが、以来およそ50年の間に、5つの原子炉が重大な事故を起こしている。スリーマイル、チェルノブイリ、福島第一の1,2,3号炉である。平均すると炉あたりの重大事故は10年に一度だ。「シビアアクシデントが起きる確率はほとんどない」故にさまざまな危険が放置されていたが、現実にはいままでどうりやっていたら10年に一度今後起こる可能性は「ほとんどない」はずがない。とはいえ、稼働するためにそれは安全であると判断すべき、ということなのだろう。

もちろん、「原子炉が爆発しても深刻な健康の被害は収拾・清掃にあたる作業員がほとんどであとは子供の甲状腺がん、しかもこれは治癒可能だ」に類する”放射線は実はそんなに怖くない説”を採用すれば、チェルノブイリなり福島第一レベルの事故がいくら起こっても市民にとっては「車より安全」だの「そもそも我々の半分はガンになる」だの「そもそも我々は死ぬ」という判断がもたらされるのであり、10年に一度がなんぼのものや、ということになるだろう。

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先日ルクセンブルクから大学院生がやってきた。以前しばらくうちの研究所にいたときにある特定の理論と技術に関して教えを請われて、要望に応えてから数年、まとまった博士論文研究を抱えて意気揚々の再登場である。私が教えたことは、遥か最先端をゆく研究に発展していた。若いってすごいなあ、と心底感心した。1時間ほどあれこれ仕事の話をしながら、自分のロートル具合の確認である。

大学院生の頃、尊敬すべき仕事をもつシニアな人の懐の深さをこちらで勝手に仮定して、若輩者の質問に相手が傷つくはずがない、とストレートな質問をバンバンしたことを思い出した。不快な顔をされたときに、なんでだろう、と思ったものだが、逆の立場になってよくわかる。大学院生の馬力と考え抜く力とスピードというのはスゴイのであって、その時分から遥かに時間の経った研究者とかは、ストレートに突っ込まれると、なんか自らの劣化を感じざるを得ないわけなのだなあ、などと遠い目になった。そのことに対して喜んだり怒り始めたり権力をちらつかせたり、いろいろな人がいるのも、まあ、そのようなことなのだろう。

その大学院生はベラルーシの出身である。仕事の話の後でテラスでコーヒーを飲みながらチェルノブイリの話のことをきいた。国際機関の調査だと、子供の甲状腺がん以外に健康への影響はなかったことになっているんだけど、どーなってんの?という話しである。

彼は自分の恋人は当時まだ小さな子供だったのだが、30キロ圏内から避難したのは事故の半年後だった、という話をまずしていた。信じられないことに、と、彼はいった。健康被害に関しては、自分の親族の誰それがおそらくそうなのであるが(と死者もぐくめて何人もあげていた)、もちろんそれは因果関係が証明されえないのでカウントされない、そもそもソ連の崩壊で政府の責任関係が曖昧になったあと、そうしたことを認めれば補償問題になる。大学院生の父親は大学の地質学者なのだそうで、チェルノブイリの後、ずっと汚染分布を測定して回った人だとかで、どこどこがどうの、ととても詳しかった。25年たった今でも汚染状況はあまりかわりないが、「農業ももはやOK」としきりに政府は宣伝しているのだそうである。

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政府がおそれること、というのはたぶんベラルーシでも日本でも一緒である。権力が政府に与えられているのは、人々がその権力を信託しているからであるが、原発の事故がもたらすその生活の崩壊は、直視して対応したならばあまりに規模が大きく、国家そのものの崩壊の契機さえはらむ。生活の排除と健康の損壊は信託を裏切ってあまりある根源的な事態であるからである。チェルノブイリの場合はたまたま同期した冷戦の崩壊でソ連ベラルーシになりかわり、国家の新装開店という形で不連続点は肩代わりされることになったが。

 だから嘘を批判するには、ただ嘘が嘘であることを暴露するだけでは不十分である。嘘が嘘であることは、騙す者も騙される者も先刻承知なのかもしれないからだ。そのような場合は、真実を暴露する者はただ「空気の読めない痛い奴」として処理されるだろう。クリスマスに胸を膨らませる子どもたちに、サンタクロースなんていないんだよと言って聞かせても、プレゼントを買い与える親の義務は免除されない。「永遠の嘘」の批判は、真実を暴露することではない。嘘に気づかないふりをする「お約束」が分析されなければならない。それは、「騙される」者、「無知」な者をも、「被害者」としてではなく「嘘」に参加する共犯者として捉えるということだ。

永遠の嘘をついてくれ」――「美しい国」と「無法者」の華麗なデュエット

福島第一原発事故は不連続点である。前後において断絶がある。その断絶の後を生きる人が、あたかも断絶が存在しないがごとく、かつての日常性の延長線上になめらかに続く今の日常性という「お約束」。しかも日本の内閣総理大臣が率先する「お約束」。ある人はそれを政治と呼ぶだろうし、あるいは現実、というだろう。とはいえ、私はそれを欺瞞と呼ぶのである。