文明の終焉
原理主義」との闘いの始まり
テッサ・モーリスー鈴木
『世界』1995年5月号

 最近の学問の世界で最も予期出来なかったことに、文明論の復権があります。文明論とは一九世紀ヨーロッパ思想の基層概念を成すものでした。文明の興亡こそ、西欧諸帝国主義の勝利に正統性および理解を与える枠組みを提供したからです。また文明間の比較は、新興の社会理論や社会変革にとって試金石の役割をも果しました。たとえば、ヘンリー・トマス・バックルは、地理および気候の条件の研究から、西欧文明の世界的優位性の起源を解説し、また(バックルと同様に明治期日本の思想に多大な影響を与えた)フランソワ・ギゾーは西欧文明史をフランス文化のパースペクティブから解析したりしました。ギゾーは以下のように主張しています。「ごく簡潔に言ってしまえば、フランスこそ西欧文明の中心部であり、かつ機関部でもある」 さて一九世紀も後半になると、ヨーロッパ周縁での民族主義の高揚により、たとえばニコライ・ダニレフスキーのような人々によって、文明論には新たな用途が付加されたのです。地球は十大文明圏によって分割し得る、ロシア人とセルピア人の連合による大スラブ文明圏の構築およびそれが他の文明に対してもつ優越性は天命である、というのが彼の説でしたが、これは一九九○年代の現在に入って、まことに不気味な共鳴音を発しています。
 二○世紀も中期になると、攻撃的な帝国主義の弁護の理論としての役割が反発を受けて、ダニレフスキー等の主張は不信任を与えられ無視されていきます。文明論が朽ち果てる前の最期の火花として開花したのが、実は、世界文明の力学に膨大で権威ある分析を加えたアーノルド・トインピーの「歴史の研究」だったのです。しかしこの本は出版以来広範に読まれることはなく大学図書館の棚で挨をかぶり続けていました内ただしどういう訳か――多分これは創価学会池田大作の影響だったと推察するのですが――日本では広く読者を得ました。ところが九〇年代に入ると、文明論の概念は、顔面整形を施され、新たな衣裳で身を飾り、意外にも最新の社会理論として脚光を浴びつつ復権してきたのです。その最も顕著な例は、たぶん一九九三年夏号の「フォーリン・アフェアーズ」に掲載されたサミユエル・ハンティントンの論文でしょう。冷戦構造崩壊後の世界秩序を理解する最良の枠組みは、世界を七あるいは八大文明間によって分割することだ、という説を彼は提起しました。一般に理解されているのとは違い、政治的経済的対立などではなく、これらの叉明図問の摩擦こそ近未来の世界動静予測の優位な要因となる、というのです。しかしハンティントンのみがこの種の主張をしているというわけではありません。冷戦構造の崩壊と、近代社会を階級制度により分析する方法の不人気とにより、文明の概念を世界理解の方法として使用する論客たちの台頭が、米国のみならず世界各国でおこりました。日本では上山春平を責任編集者として、文明概念を基層に置く数巻に及ぶ『日本文明史』の出版がありました。また国際日本文化研究センター伊東俊太郎は文明の興亡を引用して、来るベき「生世界革命しとその後の文明で、日本は世界に対して支配的な役割を演ずるはずだ、と自信を持って予測しています。 右にあげた著作に共通するのは、比較的に固定された「文化」というものがまず存在し、その「文化」を共有する地域ごとに世界を分割して、そしてそれらの「文化」圏間の競争と摩擦こそが歴史を形成する主要因である、とする点です。ハンティントンは「文明」とは「文化的実在」である、と定義しましたし、上山は「文明L とは一定程度のレベルを超えた「文化しである、と定義しています。また伊東は一九三〇年代の考古学者ヴィア・ゴードン・チャイルドを引き合いに出して、「文明」とは「都市革命」を経験した「文化」である、とさらに発展させています。
 社会的階級の水平分割によって、時として過剰に単純化された世界観を持つマルクス主義理論の歴史観に似て、文明論者たちもまた「文化圏」および「文明」によって垂直分割されたきわめて単純な世界観を持っていると言い得ます。現在おこりつつある文明論の有力な支持者である川勝平太は「これまですべての社会の既史は、階級闘争の歴史である」(「共産党宣言」)を引用し、これまでの人間の歴史は「人間同士の関係においては、民族交流と民族闘争の歴史である……民族とは、人類の歴史とともに古い、人間集団の単位である、それはなによりも文化を同じくする集団である」と主張しています。また同様なアプローチは、米国の社会学者卜マス・ソウェルの近著『人種と文化』にも見いだせます。彼の歴史観はヘンリー・トマス・バックルときわめて類似したもので、地理的環境の影響によって起源が統合されている「文化」間の絶え間ない闘争によって進歩は形成される、というものです。

文化の核分裂

現代世界が直面する危機とは、文明概念の復権によって説明されるものなどではなく、むしろ私たちが理解してきたところの「文明」概念の終焉によるものだ、と捉え直したほうがはるかに意味を成す、というのが、私がここで述べたいことの要点です。ハンティントンらが用いた意味での「文明」は、もうすでに終わってしまった、そう捉えたほうが現代世界が直面する摩擦、すなわち新しく出現した冷戦構造崩壊後の思想的対立の重要性を強調する、より新鮮なパースペクティブが得られる、と考えられるからです。
 前に述べたように、文明論を説く人達は、一般的に「文明」とは進んだ形あるいは発達した形の「文化」である、という定義を採用します。そうであるならば文明を理解するのにまず必要なのは、文化を理解することでしょう。現在使用されている意味での「文化」という言葉は、一九世紀のドイツの人類学者たちによって発明され、次第にヨーロッパ諸国そして全世界へと浸透したものです。当時の人類学は、隔離された地域に住むあまりよく知られていない集団の研究として発達しました。このため、専門家たちには、未知の言語を学び、過酷で不慣れな環境のもとで長期間のフィールドワークをする絶対的な必要がありました。この過程を一個人が他の集団に対して反復する時間も資力もまた余裕もなく、多くの場合人類学者たちは、それぞれ特殊な小集団の物質・精神生活を研究する専門家と化していったのです。
 この過程で小集団の社会現象を分析する道具として人類学者たちが使用した分類表こそ、実は「文化」だったのです。そしていったんこの分類表を貼り付けてしまうと、彼らは、その分類表にそった研究、つまり言語、技術、芸術、神話などの「文化」諸要素への体系的理解に研究の重点を置きました。こうした人類学者たちのアプローチは、二○世紀初頭のアルフレッド・クローバーに代表される世界観を生みだしたわけです。すなわち、各個の社会は、衣料、食料、祭典等の可視の様式によって強く結合し、民族エートスの価値によって統合された「文化」を持つというものです。
 もちろんこれらの研究は、時代にとってのある種の説得力を持っていたので、広範に普及しました。当時の人類学者たちがその研究対象とした、長期間にわたって比較的変化のすぐない隔離された小さな共同体は、明白に(西欧とは)異質の言語、神話、技術体系を持ち、かつ当然にもそれらが不可欠の要素として統合された社会でした。
 さて、二○世紀の歴史が示す最も重要なひとつの傾向をあげるとすれば、それは一九世紀の人類学者が研究対象とした自己充足した文化は、すでに核分裂をおこしてしまっている、という点ではないでしょうか。
 例は挙げるのにいとまがありません。ロシアにあるマクドナルド・ハンバーガー店やマレーシアのサバの牛市では台湾製電卓で利益を計算しますし、タイやインドネシアの子供たちは、転生伝説ではなくスピルバーグの映画が作る新しい伝説によって、感性を形成しています。
 この傾向が持つ二つの局面がとりわけ重要だと思います。商品および消費者文化の国境を越えたフローが、西欧社会から他社会へという単一の方向性を持つものではすでになくなった、というのがまず第一の点です。工業化されつつあるアジアやラテンアメリカでは、このフローは、商品および消費者文化を輸入するのみならず、それらを国際的に一般受けする主題にそって変形、再生産して輸出する、という多方向性を持つフローに変質しました。たとえば日本の連続テレビドラマ「おしん」や、そのメキシコ版である「純真なマリア」(Simplemente Maria)の世界的成功を思い浮かべて下さい。 次に「国際化文化」の伝播は、もはや新興工業国のニュー.リッチという中産階級に限定されたものではなくなった、というのが第二の点です。
 一昨年私はタイ中南部にあるアラニングという村を訪れました。この村では二百数十年前に戦争捕虜として連行されてきたラオスの職人たちの末裔が、伝統的な包丁・刀剣作りに精をだしていました。彼らは今でも、この特殊な技術を与えてくれた聖なる古人を古典的な祭りの形式で祝い、ラオス人としての起源を想起し続けます。しかし同時に彼らはタイ語で会話し、廃車となった日本製トラックから原料を得、台湾あるいは香港製の送風機で溶鉄し、マレーシア製ラジオから流れるビリー・ジョエルのロックに合わせて精練しているのです。
 つまり文化という一九世紀の意味での分類表は、もはや手際のいい定義の境界から逃げ出してしまったのです。ここで私が強調したいのは、だから世界中の人々が類似化した、という点ではありません。私たちは言語をある集団と共有し、宗教をまた他の集団と共有し、そして衣料、食料、音楽等を時に応じてまた他の集団と共有する、というふうに文化は多次元的存在として私たちと共生している、という点なのです。

(つづく)