まるごと死んでゆく

長期脳死、本人の意思表示@参議院での発言(森岡正博さん)
http://d.hatena.ne.jp/kanjinai/20090708/1247014793

ここから、私の個人的な見解、といいましょうか、思想、哲学になるのですが、
こどもたちには、自分の身体の全体性を保ったまま、
外部からの臓器摘出などの侵襲を受けないまま、
まるごと成長し、そしてまるごと死んで行く、
自然の権利というものがあるのではないでしょうか。
そして、その自然の権利がキャンセルされるのは、
本人がその権利を放棄する事を意思表示したときだけではないでしょうか。

日本の国政の場でこのようなスピーチがあったことに拍手したい。「日本の文化では、臓器移植はいやがられる」的な形で文化論にもっていって「しかしながら欧米では」といった”脳死は人の死”擁護論があるけれども、上のリンク先を読めば、文化バイアスではなく脳死状態はひとつの生き方であることがわかるのではないか、と思う。こうした意見にリソースの有限性の話から「むりです」という人がいるのも想像できるのだが、その前のステップとして、脳死をひとつの生き方としてまずは認めるべきだと私は考える*1。 

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まるごと死ぬ。今年2月上旬に、彼女の脳幹がほぼ全滅している、と集中治療室の担当医師団のひとりに告げられ、脳死と臓器移植のドナーになる可能性のことをちらっといわれたときに、頭が割れるほど考え抜いたことだった。さまざまなデータと友人の内科医、脳神経外科医たちと胃に穴が空くような、そしてとてもかぎられた時間の中で議論をした私の結論は、彼女はそれでもまるごと生きている、ということだった。脳死という彼女であっても彼女は生きている。そして彼女は不思議なことに脳幹を復活させて生きていたのだけれど、だから彼女は生きていた、のではない。脳が死んでも彼女はまるごと生きていた。そしてまるごと死んだ。だから私は納得した。

*1:090818 追記 スピーチの全文が後日森岡さんの生命学ホームページにアップされていたので、リンクを追記する。http://www.lifestudies.org/jp/marugoto.htm