棲み分け

空手のトレーニング法の動画をニコニコ動画で眺めていて、この動画をドイツ人の空手仲間に見せたいな、と思った。でも”登録してみてよ”とか簡単に言えないし、ダウンロードしてYoutubeに再投稿するほどの欲求でもない。
1994年ごろのインターネットでは、ウェブサイト自体の数が少なかった。だからだろうけれど、サイトがどこの国のものかということよりも、関心を中心にユーザーないし読者のクラスターがなんとなく決まっていたように思う。2008年の今、インターネットは言語によってすみわけがすすんでその世界が分かたれている。使用状況(インターアクション、相互訪問など)をクラスターにわけたら、かなりはっきしした塊が言語によって区分できるだろう。おもしろくない傾向だよなあ、言語が違ってもなんとか場をもっと共有したりできないものか、と思ったりするのだが言語が違うと文化コードも違ってしまって、”空気読めない”どころではなく、なかなか難しいことなのだろう。
動画共有という新たなコンセプトでYoutubeが登場したのは私にとってはずいぶん最近のことだが、言語圏によるすみわけの進行はひどく速かった。Youtubeに日本語や中国語の動画が投稿されてその動画に「ネットは英語の世界だ」といった英語帝国主義なコメントがつき、それにたいして「アホですか」というコメントがついたりするのはなかなかいいなあ、と思ったりするし、「これなにいっているの?」と英語のコメントがついて、それにたいして言葉を理解できる人間がそれにレスして解説したりしている状況に、世界はかくありたいねえ、と思うのだけど、動画の世界でもまた言語圏によるすみわけが進行するとこうしたことも減っていくのだろうなあ、と思う。好き嫌いの話だけかもしれないが、異なる文化背景の人間がほのぼのと相互作用している現場を眺めるのは私にとってなんとなくうれしくなることである。