アンドレアス・グルスキー展


ベッヒャーシューレの一番弟子、アンドレアス・グルスキーの新作写真展覧会を見にいってきた。ミュンヘンのハウスデアクンスト。一言でいえば圧倒的。空・川・岸を水平分割したミニマルなライン川の写真とかが有名なのだが、ここに来てテーマがかなり集約し、マクロとミクロ、という視点が実に明確だった。作品はどれも巨大なのだがこの巨大さがどうしても重要なポイントで、というのもディテールとともに全体が俯瞰できるという簡単な事実の圧倒的な迫力はどうしても巨大なキャンバスを必要とする。たとえば群集。群集がテーマとなった写真が多い。遠くからぱっとみたときに3X2メートルはあるような面に群集が何千人も写っている様はそれだけでなにかすごいぞ、ということになるのだが、近寄ってよくよくみると人それぞれの表情や小さなしぐさまでも見て取ることができる。『ピョンヤン』と題された4つの連作は北朝鮮マスゲームの写真をコピペしたこれまた巨大な作品なのだが、踊っている子供たちのそれぞれの表情までもみることができる。同時に全体は幾何学的な構成になっている。あるいは『カミオカンデ』。水を抜いたカミオカンデの中で写したこの写真は最初私は寺院の内部装飾か、と思ったがタイトルを見ておお、光電子倍増管か、とやたらとおそれいった。曼荼羅のようにも見えるこの巨大な写真、微細な宇宙の光をキャッチする機械と考えれば少々宗教的ではあるよな、と思い直したりする。ひたすら巨大なのに焦点はミクロな形状にはあくまでもぴったり合っている。これらの写真の前に立つ我々は全体をみながらそのディテールをすべて知るいわば汎神になるのである。
ブリューゲルの絵には中世の村の何人もの人々や何頭もの家畜の生活を細かく描いたものがいくつもある。よくよく見ると楽しそうに立小便をしている子供がいたり、酔っ払って突っ伏しているオヤジとかがいて楽しいことこの上ない。画面はかならずジグザグのパノラマに構成されていて、近くから遠くまでが一望できるように構成されている。展覧会にはおなじような構成の群衆の写真がいくつかあったが、特に『モナコ』がすごかった。F1の会場を撮影したものなのだが、前面の観客席に座る人々から遠くで泳ぐ人、フェリーに鈴なりの人々を経て、遠くの島や半島がフラットに写っている。どこか説明的だけれど、眺めはじめると実に見飽きることがない。

I am working on an encyclopedia of life.(Andreas Gursky, Stern 6/2007)

もらった解説書に引用されていた言葉である。グルスキーの写真はまさに辞書なのだ。『だるまちゃん』シリーズで有名な日本のかこさとしの絵本にもどこか共通している。

参照: ドイツ写真の現在 ― かわりゆく「現実」と向かいあうために