個人的サイエンス、個人的生命

巨大サイエンスとなった実験物理学なんかを考えれば世の趨勢は共同研究なしにはサイエンスがすすまない、という時代に生物学もなってゆくのだろう。というか、生物もどんどんそうなっていっている。大きな理由はプロジェクトがでかいほど予算がおりる、ということが筆頭の理由である。でもなんか抵抗を感じるのは、共同研究でなければ研究ができないってのはなんかなあ、と思うからである。ひとりで研究できないのだったら、半人前ってことじゃないのか、とそもそも一人でなんでもやれと貧乏な大学で訓練をうけた私は思ったりする。うちの研究所の院生を見ていると、共同研究のつぎはぎをするのばかりうまくなって、一人でコツコツの世界ではない。エリート養成という意味ではいいのかもしれないけど、サイエンスとしてはどうなのだろう。客観性と再現性を考えれば、だれがやっても関係ないから入れ替え可能である、したがって個人だろうが共同だろうが関係ない、というドライな理屈はわかる。でも研究は個性がでるからおもしろい、という部分が多分にあるのである。
共同研究でなければ研究が進まないという事態によくにているのは、たとえばロビンソン・クールソーなり原始人は自分ひとりで生きていく知恵や技術をもっていたけれど、今の人間が突然一人で野原におっぽり出されたら生きていけない、ということである。いや、別に原始人でなくとも、100年前の人間と比べても、サバイバル能力は確実に落ちているだろう。炊飯器がなければ飯も炊けない、というのが実情だろうから。一人にしたら死ぬのであればすなわち、人間を個体レベルでひとつの生命体と考えるのはすでに間違っているということなのである*1

*1:・・・と書いてから思ったが、これを”共産主義社会”といわずしてなんといえばいいのだ。もちろん思想的な意味ではなく字義として