匿名について
ネットにおける匿名の記事発信に関してはあるていどコンセンサスのある見解が流通している。すなわち次のようなことだ。ネット上においては言論がすべてであり、その内容と経歴によって人格が形成される。したがって匿名であっても個別認識が可能であり、戸籍に登録された氏名よりもよっぽど意味のある場合だってある。
この論理に私はうなずく。なるほど、ということでじゃあ実は匿名ではなくてネット実名なわけね、と得心する。しかしながら、だからネット実名で戸籍実名を批判することは正当である、といわれると私は留保をつけたくなる。なにやってもいいわけではない。順番に説明する。
ネット実名の個人が互いにその世界の内側で罵倒や応酬を繰り返すだけならば私はどんどんやればいい、と思う。でも少々事情がかわるのがネット実名とネット匿名のクラッシュだ。ネット匿名に対してネット実名は脆弱である。なぜならば、ネット実名には守りたいそのネット経歴があるから。この点はまさにリアルな人格に対する匿名の攻撃によくにている。しかしこのクラッシュの場合しょせんネット内の出来事なので、未練を捨て、ネット経歴を捨て去ればそれで攻撃の矛先は容易にクリアーできる。あるいはネット匿名に媚を売り、わかっているよ、と目線をなにげにおくること。未然の回避である。そうした戦略をとっている人はかなり多くみかける。
問題に思うのは、ネット実名・ネット匿名連合と戸籍実名のクラッシュである。「死ぬ死ぬ詐欺」はこのタイプのクラッシュなのだが、これを”ネット実名と戸籍実名のクラッシュなのだから、自由に発言をすることを保障された個人の間の論争である”とその非対称性を正当化しようとする向きにはどうにも賛同できない。ネット実名に人格を保証する要素はネット実名に対するその個人の未練だけだからだ。未練さえ捨てることができれば、そのネット実名はこの世から消滅することができる。でも戸籍実名の人間は消え去ることができない。物理的には無論簡単であるが、ネット実名に比べれば捨てることの覚悟には格段の差がある。したがってそのクラッシュは本質的に非対称である。この非対称性があるからこそ、我々は匿名を選ぶのだ。戸籍実名で発言することにはハンディがあるである。
ではなぜハンディが生じるのか。あまり考えるまでもないが、捨てるという点から見たときの上のような人格の軽重に加えて大きな理由がある。それは恐怖心だ。ネット匿名による”晒し”が怖いのである。ネット実名が戸籍実名とクラッシュするだけならば、ネット実名にも未練と名誉があるからいくばくかの礼儀と正義が生じる。しかしながらネット匿名には礼儀や正義に気をかける必要がまったくない。もちろんネット匿名であっても個人的な良心にしたがう人間のほうが多い、と私は思うのだが、そうではない一群がいる。「ネットイナゴ」とはこうしたネット匿名をさす。未練も名誉もないゆえに邪悪さや正義という名の破廉恥な好奇心を十全に発露させることが可能だ。見返りも守るものもないゆえに良心はまさに純粋贈与として美しく、邪悪さは満月の夜の遠隔狙撃のような卑怯さを生み出す。人間の正邪が極端なまでに顕現するのだ。
ましてやネット実名とネット匿名の連合は強力だ。ネット実名はその名誉にかけて発言をし、ネット匿名による賞賛に溜飲を下げ、一方でネット匿名は邪悪なまでの個人情報収集に邁進する。するとさらにネット実名がその情報を取り上げ、名誉をかけた次の言論のステップが踏まれる。ネットの権力は”暴露”にその本質がある。戸籍氏名の社会においては、”暴露”するものはそれなりのリスクを考慮する必要がある。たとえば、暴力団の記事を書いたジャーナリストの息子が刺される、というような現実の事態は暴露にともなうリスクの典型である。ネットにおいてはそのリスクが過小である。だからネットの権力の源泉は暴露にあるのであり、これまたその暴露内容は正邪両極端に大きく振れることになる。我々はその暴露の邪の部分を恐れている。そしてその恐怖を軽減するのが匿名、ということになる。つまり我々は敵のみえない恐怖に駆動された不自由さのもとにあるのである。
こうした背景を捨象して「ネット人格と戸籍人格のイーブンな対立」として正当化する向きには私は賛同できない。わたしがこんなことを考えたのは、ネット人格である”がんだふる”氏と毎日新聞記者の間のいざこざを報告する文章を読んだからである。記事は毎日新聞記者による取材と記事のおそまつさを描いた内容である。”がんだふる”氏は毎日新聞しに掲載された自らのインタビュー記事に、ネット実名の詳しい説明が反映されていない、だまされた、と憤る。記事を書いた佐々木某もまたネット事情がよくわかっていないハードメディア記者、としてこきおろす。おまえらだって所詮匿名ではないか、と新しい発見をしたようにおおげさに指摘する。でも問題の本質は、ネット実名の”がんだふる”氏と、マスコミ匿名の毎日新聞の間にあるのではない。問題は戸籍氏名で現実に身をさらす人間(たとえば「死ぬ死ぬ詐欺」の両親)とネット実名ネット匿名連合との間にある非対称性、権力の濫用なのである。
こうしたことをいうと、「ではネットの発言の自由と権力批判の可能性を奪うのか」といった反応もあるかもしれない。実際に個人情報保護法はまさに自由を奪う狙いでできたわけだが、より強力な共謀罪なる法律が国会審議間近である。この法律は私からみると良質な意味でのネットの暴露対抗権力を封殺しようというものでもある。それを後押しする素材として上に書いたような小物の邪悪さとそれに対する恐怖心が利用される。自治のコンセンサスを実行をすることができなかったネットの自滅にほかならない。