ピュアな関係欲動
関係への欲望は、関係をすることの意味とは独立に作動する。したがって、関係性が生じたことによるイベント、現象、社会的影響力は結果であって目標ではないという事態が、そこここに生じる。”関係性のみがある”という高校生のリアルや、瞬時にして暴露する・暴露される関係が入れ替わるネット実名・匿名の世界は、どうやらこの関係性への欲望の自動的な作動であるように思う。だからそれは結果から見れば妙に良心的な方向や極めて邪悪な方向のいずれにも作動するのだが、こうした結果はあらかじめ方向付けられるものではない。
ネットにおける連帯と関係性への欲望とその極端な作動の背景には、ネットという特殊な社会性が始まってものの10年、という点がおそらくポイントである。いわば原始時代だ。一方で高校生が剥き出しの個人になり、”関係性のみがある”状態なのはよくいわれる「規範が崩壊した」からではなく自己責任なる社会的放置が跋扈するようになったことの直接的な影響だろうと私は思う。かたや新参、かたや放置であるがいってみればいずれもがナイーブで野蛮ということなのである。
国家主義的な発想は国家という建物において要素としての人間が柱や壁を静的に構成し、重力に抵抗する垂直の力関係として人間を考える。個々の人間をレンガとすれば、レンガがしっかり積み重なって柱や壁を構成している状態が国家ということになる。社会関係や家族関係は強固にして不動、でなければ壁は脆弱になり国家はゆらぎ崩壊する、というイメージになる。このモデルでは上で述べたような無指向性の”関係性のみ”で構成されるダイナミックな多数の要素をそのままの状態で扱うことはもちろん不可能である。だからこそたとえば国家は新教育基本法を施行し社会関係や家族関係を枠にはめようとする。分析の労をへずして現状のきわめて孤立したなおかつオープンな関係性を全て否定するという方法だ。また、国家による規制・強制をよしとする人間が多くなるのも、こうした垂直方向の関係性・構成のイメージに拘泥しているからである。三十人三十一脚を教育に導入せよ、という発想はその最たるものである。
人間の水平方向の関係・連帯欲動を、はなから否定するあるいは規制により垂直方向に転換するという思慮の浅い国家主義的な手段は成功しないだろう。国家による家族関係への介入、ネットや携帯電話の規制、校則罰則の強化、愛国心の操作的な醸成といった方式は単に全体主義である。時代遅れということもあるが全体主義が成功しないのは歴史をみれば明らかであり生きながらえている代表選手の北朝鮮を見ればこれまた明白である。だとしたら脊髄反射で関係・連帯欲望の作動を否定し規制するのではなく、その荒ぶる作動様式の特質をひとまず見極める必要がある。