片栗粉の増粘機能

昨夜、空手のあとに師匠とビールを飲みに行った。師匠があまり飲まないので今日はまた病気か、とひやかしたら、いや、明日は授業があるからあんまり飲めないのだ、という。本業はパン屋の職人なので、なんでまたそんなことをしているのだ、という話になった。なんでも、教会学校で子供たちに信仰を教えている、のだという。信じることをそもそも教えることは可能なのか、という話をしているうちに、彼は現代社会における信仰の役割の重要性について持論を展開し始めた。すなわち、現代社会は個人主義が深化しすぎて、モラルの低下やコミュニティ意識の希薄化が著しい、かくしてそこに信仰の重大な役割が浮上しているのだ、という。わかる?と確認するので、Sossebinderとしての宗教ね、と答えたらとても喜んでいた。Sossebinderとは直訳すれば「ソースの増粘剤」、ドイツ語で片栗粉のことである。そう、Sossebinderなのだ、このしゃばしゃばな世の中に片栗粉投入なのだ、と熱くなっていた。以前から几帳面でマジメな人だとは思っていたが、こんな側面があったのだなあ、と少々おどろいた。
先日「世界どこでも右傾化は著しい」というようなことを書いたのだが、少なくともドイツと日本で似たような社会問題に対する捉え方があり、共有されていることがわかるだろう。空手師匠の場合はその問題を宗教という古典的なツールによる改善を目指す一方、日本では”愛国心”という片栗粉の投入による改善ということになる。同席していた同じく空手仲間である人文地理学専攻の大学生が、それじゃあkmiuraみたいな異国の無宗教の人間は排除されるしかないわね、と皮肉交じりに意見していた。まあ、そうなんだよな、と私も同意する。師匠は、いやー、マジメな話をしすぎちゃってもうしわない、と議論はそこで終わった。私は別にかまわないのだが、「まじめな話を酒の席でする」ことをすまながる師匠に、なんか日本人みたいだなあ、と思ったりしたのだった。

いくつか断片的に考える点があるのだが、まとまりもなく列挙してみると
(1) 空手師匠が付け加えた補助的意見として、ドイツの過去には国家という形で片栗粉を導入し多いに失敗した経歴がある、したがって国家ではなく宗教こそ片栗粉となるべきなのだ、という点があった。このことを聴きながら、うーん、日本の場合は国家と宗教がまともに分離していないから問題なんだよなあと思った。国家からきっちり独立しているならば神社が町内会の役割を果たすのも悪くはないんだけど、などなど。同時に特に南ドイツに著しい宗教と政治基盤の深い関係なども思ってドイツにしたって別に完全に独立しているわけではないよな、と考えたり。
(2) 片栗粉を投入するのはいいのだが、その外側はどうなるのか、という問題。地理学専攻の学生の発言の部分である。たとえ話をもう少し詳しくすれば、片栗粉は冷たいソースに投入してもどうにもならない。熱を加える必要がある。増粘させるにはその系にエネルギーを加えることが必要なのである。熱を加えることは同時に外を冷やすことだ。”内側”の境界線の引き方はいろいろだが、片栗粉の調理における使用法と同様、ある部分のアイデンティティを強化すればそこから排除されるアイデンティティの一群が必然的に存在してまうのである。これをダイナミクスにすれば、一例として昨日書いた中の国家間における「孤立と愛国のダウンスパイラル」に接続する。
(3) モラルは社会があるから存在する。孤立した状況では生じない。たとえば無人島で一生暮らすことの決定した人間にとってモラルなる自己規制には意味がない。あるとしたら、せいぜい孤独な自分を社会というフィクションの中に妄想する代償機制としての意味だろうか。なにはともあれ、通常の人間社会において片栗粉の存在がどんな形であれ人間の社会性を向上させること、同時にモラルなるもの自己発生と機能を期待するのは性善説的な立場からは妥当だと思える。問題なのは、(2)にあるように片栗粉の効果は同時に排除を伴う。排除があるからこそ片栗粉は増粘剤として機能するという二面性があるのだ。エントロピーの第二法則に反してなぜかくも秩序の自己形成が生じるのか、というよくある質問があるのだが、その回答として”その方が宇宙全体の均質化は速度がはやまる”という考え方がある。ローカルな秩序の形成は、全体の混沌形成速度を高める、という理論はこれまた片栗粉ににている。
(4) 実はこうしたことは今まで何度か考えたことのある内容である。私は一人一人が一人であることの不安をもっと引き受けることさえできれば、内と外という極端な形ではなくその境界が半透膜ぐらいで全体が平衡状態にいたるのではないか、と思っている。いわば、片栗粉の効果が内から外にも浸潤する、そんなイメージである。
(5) 一方で今日付けの狂童日記にあるように、階層の固定化に対するやりきれない怒りもある。そこから操作的に怒りを社会の中に投入し、すべての既存は破壊すべしという明治維新の時分の西郷隆盛ないし新宿にたむろっていた若かりし中上健次のような考え方もある。これは軸が縦に変換された排除の構造にほかならぬのだが、同様の問題はたとえばたまたま最近大前研一が指摘している。

つまり、新しい法律を作るときには、過去の法律に抵触しないようにしなくてはいけない。ところが、日本では明治時代に作られたたくさんの法律が今なお有効なのである。六法全書を開くと、半分以上が戦前に作られたものだ。それらの法律すべてに抵触しないように新しい法律を作ることは、法律の専門家ではない国会議員には無理なのだ。立案が可能なのは、その辺の事情を熟知している内閣法制局ということになってしまうのである。一応、立法府にも参議院法制局衆議院法制局という専門部署がありはするのだが、残念ながら内閣法制局ほどの力はない。
「やらせ問題」で見えた貧困なる日本の法案づくり
http://www.nikkeibp.co.jp/sj/column/a/59/02.html

平和な世の中が続けば、過去が澱のようにたまって窮屈になるばかりなのは事実である。世界の大きさは同じなのにルールばかりが増えて通り抜ける道は複雑になるばかりだ。行き止まりも増えてさながら迷路のようになる。この問題を解決するひとつのアイデアは確かに「全部壊す」ことである。スープから作り直す、とでもいうのか。確かにそうなのである。でもそれは結局解決にならない。同じことが繰り返され、しかも破壊した直後に排除されるのは西郷隆盛よろしく、破壊した人間かもしれない。上記(4)のような、もうすこしあいまいな、社会の怠惰な慣性を失速させる小さな破壊と再生が常に繰り返される社会のありかたが可能なのではないかと私は引き続き思っている。