対立する愛国心

二つの対立する”愛国心”に関する議論を眺めてみる。

教育基本法改定賛成派。

反対派の人々の反対理由は、「愛国心」一点に集中している。
つまり、「愛国心」 → 「戦前戦中の忠誠心教育」 → 「戦争をする国」との連想だ。
そもそも、「愛国心」と言う言葉自体が忌み嫌われる「悪」のイメージがある。人を”愛”する、自然を”愛”すると同様に「国を愛する」と堂々といえない国家こそ、異常ではないだろうか。

反対の理由に、「愛国心は強制するものでなく自然と備わるものだ」ともおっしゃる、その通りだと思う。

しかし、その方々(教職の立場の人が多い)は、「愛国心」を持つことを否定しているし、時として「悪」と教えている、育てる立場の人々が「我が国と郷土を愛する態度を養う」ことに消極的(否定的)である限り改善を促すのは国家を憂う立場としては放置しておけないと思うのも当然ではないだろうか。
また、象徴天皇の現代でも、「国や天皇のために死ぬことが愛国心」と思い込んでいる人が子供を教育していることに”寒気”がする。自らの国を愛せず、誇りも持てぬ子供に、郷土愛や、隣人愛、親子の絆、友人への思いやりを語れるはずもない。
「戦争をする国」ではなく、
1-2-5) 伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。
のできる人を育てるのも大人の務めではないだろうか。
反対集会に集まった「在日コリアン」はじめ中韓等の人は「祖国愛(愛国心)」からの参加ではないのですか?そう思えば、確かに「間違った愛国教育は危険だ。」
愛国心=戦争する国」と思っている人にとっては反対することが「愛国心(国を愛する心)」なのだろう。
そこまで考えが至らない私は修行が足りないのかも。

教育基本法改正に反対する人は、現行法が最良と思っているのでしょうね?

教育基本法改定反対派。

改正案の「愛国心」教育は、決して危険な国家主義にはならない、と政府与党は言っています。「わが国と郷土を愛する態度を養う」という時の「国」という言葉は「統治機構」を意味しない、「伝統と文化を育んできた」「郷土」を含む「国」、誰もが自然に愛を感じる祖国としての「国」なんだ、というわけです。「国」という言葉が「統治機構」つまり国家権力、分かりやすく言えば政府、という意味ではないから、この「愛国心」教育は危険ではない、という議論がまことしやかに語られています。
 でも皆さん、これは勘違いもはなはだしい、ひっくり返った議論です。憲法や法律に出てくる「国」という言葉はむしろ「統治機構」というきっちり限定された意味でないといけないんです。この法案だって、他のところは皆、「国と地方公共団体は」云々、ちゃんと政府という意味で使っています。しかし、愛国心のところで「政府」という意味にしてしまったら、だれも「政府」を愛する人なんていませんよ。よほどの権力好きの人でもない限り。国民の心や感情を国家に向けて動員するためには、愛国心の「国」は「統治機構」を意味したのではまずいのです。
高橋哲哉さん 11月12日付講演より

前項で書いた”一本やり上意下発システム”の無謬性が上の賛成派の意見には見うけられる。国家による動員、という発想が貧困なのだ。なぜならば、すでに動員されているから、とでもいおうか。動員のその内実が赤紙であるとはかぎらないのであるが、動員という状態そのものに対して1930年代から40年代の軍国主義しか想起することができないのである。高橋さんはこの点を説明しようとしているのだと思う。でも、国家(ここでいうと統治機構、になるが)による動員とはなにか、ということを反対派はより明確にしないと、賛成派と議論にならないのではないか。まあ、たとえばタウンミーティングのやらせ、なんて動員そのものですな。某国の”よろこび組”とどこがちがうというのか。