反日映画批評

「パッチギ」という映画を観た。青春映画である。青春映画が弱点である私は、高校生が主役になっているだけで評価が5割増しになってしまうのだが、いやー、青春映画はスバラシイ。テーマは青春映画の王道を踏んでいるので、長々と説明する必要はない。京都の男子高校生と、女子高校生が、その属する集団のいさかいを超えて恋をする、という内容。属性の違いはかたや公立高校、かたや朝鮮高校である。朝鮮高校の女の子の兄は高校の番長であり、日本人の女を妊娠させ、集団乱闘の中途に生まれた赤ん坊の顔をみて父親としての自覚に目覚める、などといった話も平行しており、典型のゴリ押しであるのだが典型は語り部によって傑作にも陳腐にもなりうる。この映画ではとても成功している。あらすじはこのあたり。属する集団の異なる男女の間の恋は例を挙げるまでもなくどこの文化でもおいしい物語ネタである。ロミオとジュリエットの場合は家族のいさかいが恋愛の障壁となっているし、シンデレラにしても階層の異なる男女の恋愛である。日本にしても曽根崎心中など、社会的要請と個人の感情の軋轢が恋愛の障壁となり、その障壁を巡る感情の攻防をわれわれははらはらしながら見守るわけだ。でもなあ、この青春王道映画を「反日映画」って思う人がいるらしい。

ウィキペディアでは次の部分の挿入・削除合戦が行われている。

ただし青春ドラマでありながら、日本人と朝鮮人にまつわる民族問題、共産主義または北朝鮮を是とするような描写、明らかに事実と反する事柄が歴史的事実のように劇中語られている。
ウィキペディア 最新版差分(2006年11月7日時点)

「日本人と朝鮮人にまつわる民族問題」があるのは事実である。また、朝鮮人が「われわれは被害を受けた」と思っているのも事実。その被害の内容の多寡とか、被害自体が事実であったかどうかということは、あちらこちらで豊富な議論や検証があるのでここでは触れないが、朝鮮人や韓国人が「日本に侵略され、ひどいあつかいをうけた」と思っているのは事実である。また、在日韓国人朝鮮人が「我々は差別されている」と思っていることもまた事実だ。そこに差別があるかどうか(これまた検証がいろいろあるだろう)、ではなくて彼らが日本で差別をされていると思っているのは確かなのである。これは疑いようがない。
次の歴史的事実としては「1968年当事在日朝鮮人の中には、朝鮮に”帰国”しようとしていた人がいた」。映画ではこうした当時の帰国運動がストーリーの一部になっている。でもそのことは「北朝鮮を是とする描写」ということではない。そうした考え方が当時ありました、ということなのである。もし、こうした構成をもって「北朝鮮シンパ」となすならば、911のハイジャックを描いた「ユナイッテド93」の映画監督は「イスラム過激派シンパ」ということになる(まあ、そんな風に考えるおろかな人もいるんだろうな)。あるいはこうもかんがえられる。映画の中の1968年当事の朝鮮系コリアンに感情移入する自分をコントロールすることができない人間は、北朝鮮に行きたくなる自分にヒヤヒヤして「共産主義または北朝鮮を是とするような描写」を感じるということになる。
最後になるが、「共産主義を・・是とする」。これはおそらく毛語録を教室で振りかざす高校教師が出てくるからなんだろうけど、まあ、1968年にはいたんだろうなあ、こんな先生。だからといって映画自体のメッセージが「共産主義を・・是とする」わけではないのは、説明するまでもない。
世間にあまねく存在する認識と事実の網目と階層を俯瞰することができていない。おろかな人、すなわちこれまたカマヤンさんのいう「物心がついていないひと」なんだろーな。表現対象と表現主体を区別できぬおろかさ。おろかだけど改正される教育基本法の元では、社会教育の立場から、表現自体を禁止する根拠として十分機能するだろう。なにしろ「隣組」である。

つまり「隣組」が復活して「愛国心育成運動」を自主的に起こして、政府提案の教育基本法を根拠法として「お宅はどうしてますか」と報告を求めたり、干渉をしたりということが起きていた時に制止できるのは塩崎官房長官答弁の「そういうことまでは求めていないという立法者の意志は議事録に残る」いう言葉に尽きることになる。国旗国歌法の時の野中官房長官答弁「教育現場に強制はしない」という答弁がどんなに無視され、ないがしろにされたかを私たちは知っている。教育基本法だから学校が危ないと思ってきたが、家庭教育・社会教育・生涯学習なども包括する法案であることが今日明らかになった。
教育基本法は「家庭教育」も対象、隣組復活への道が仕込まれている
保坂展人のどこどこ日記

というわけで塩崎官房長官の太字にした部分、忘れないようにしましょう。

続いて、映画評をいくつか眺めていてオドロイタ話を続けよう。ひでえ評価があるのを見かけたのである。プロ映画批評家であると自称する前田某なる人間による評である。たとえば、なのだが、次のような結論である。

ただし、本作で”感動”できるのは、朝鮮人か、朝鮮側の立場、言い分に感情移入できるお客さん限定だ。あなたがもし愛国的な日本人だった場合、この映画を見たが最後、「冗談じゃない!」と激怒して劇場を出てくる事になるだろう。
というのも、本作は基本的に自虐的歴史観というか、反日風味がたっぷりの映画だからだ。何しろこの映画のストーリーは、無知な日本人少年が朝鮮語を勉強し、彼らに溶け込むよう努力し、「祖先が起こした過去の犯罪的行為」とやらを彼らから知らされショックを受けなが
らも、それでも彼らとの友情を求める話なのだ。
http://movie.maeda-y.com/movie/00455.htm

「朝鮮側の立場に感情移入できるお客さん」とは「朝鮮だから感情移入できない」ということだろうか。表現する行為を政治として対象化する発言なのであるが、そもそもこんなことをいったら職業「批評家」は存在しえないのではないかと思う。そんなわけで素通りしたくもなるのだが、この論の展開のメソッドは実はおろかな人のありかたを少々分析する上でよい材料になるのではないか、と思うのである。

映画やそれに関する文章からは少し離れるが、自分の経験の中で朝鮮・韓国体験を書いておく。私が最初に日本による朝鮮半島併合の歴史的事実を感じたのは、アメリカにいた13歳のときだった。仲良くなった韓国人(彼は米国移住組ではなくて、韓国の外交官の子供だった)の家にいったら、そのおばあさんがいて、私が日本人ですと自己紹介したときに、あー、それはそれはと挨拶を交わした後に「さくらさくら」を歌いはじめたときだった。日本が好きでね、とおばあさんはそのあとに言ったのだが、完璧な発音に圧倒されてさらに昔韓国は日本の植民地でだから日本語を習ったのよ、説明するおばあさんに、な、なんだ、と私は言葉を失ったのだった。

次の体験はそのすこしあとだが、うちによく遊びにくる在日朝鮮人(であるか在日韓国人であるか実は知らないのだが)の米国留学生の男子高校生がいた。うちにやってきては焼肉は本来かくして用意すべきであるなどとへらへら講釈をたれる彼の命ずるがままに私は肉にニンニクを埋め込んだりしていたのだった。高校生なのにマツダのサバンナ(って型はもうないのだろうか)に乗っていて私としてはとてつもない金持ちだと思ったのだが、後で聞いたところによると、関西のパチンコ屋の御曹司なのだという。だとしたら不思議ではないということなのか、とパチンコ屋=金持ちという図式が私の頭の中でできたのはそのときだった。とはいえ、いちばん思い出に残っているのは、靴下がいつもまっさらっできれいだったことで、なんでいつもこんなにきれいな靴下を履いているのか、と聞いたら「臭いが気になるから洗濯には気をつけている」といっていたことだった。うわー、かっこいい、と私は思ったのだった。

三番目は、日本に帰って中学に少しだけ在学したときのことである。これは直接の経験ではない。暴走族の友人が、いかに朝鮮中学・高校の人間が怖いか、という話をしたときのことを思い出す。その友人自身、80年代東京の10代少年たちが経験した恐るべき暴力的な時代をすごした人間だったのだが、彼の話す「チョン高は怖い」という話は輪をかけてすごかった。鼻鉛筆なる制裁がある、という話である。鉛筆を半分に叩き割り、切断面を両の鼻の穴に挿入し、掌底でその鉛筆をたたき挙げて鼻をずたずたにする、という制裁だった。鼻の穴が4つだぜ、という結論にうわー、と私は思い、「えー、だけど知り合いの朝鮮高校の人はそんなひとじゃないぜ」などといってみたものの、逆にすごまれるというなんともこれまた困惑する経験をしたのだたった。

「侵略者であるところの日本」的な気分を最も強く私に与えたのは、ハワイの真珠湾に関してである。ご存知のように真珠湾は米国が攻撃を受けた場所として、911が起きるまでは最大にしてもっとも強く回顧される場所だった。そこにいったのは米国から帰国する途中で、さんざんパールハーバーねたでなんども罵倒されたりけんかしたりしてきたものだから、なにしろそこを訪れるのはひどく緊張した。私がはるか生まれる前の出来事なのだが、にもかかわらず私の日常に有無をいわさずに深く関わってきた出来事でもあるのである。そこはあっけないほど静かで、天気がよく、掲げられた写真も古ぼけていたし、水中に沈んだ状態でみることのできる撃沈された米軍の軍艦も迫力というよりも博物館に近い状態だった。緊張しながらそうした展示を抜き足差し足、な気分で見てまわったのだが、自分のアクチュアルな体験とはどうしてもその過去形な存在は接続することがなかった。

こうしたことをずらずら書いているのは、過去に起こった出来事と現在の自分がいかに接続されるか、ということをなんとなく書きたかったからである(と実は今判明した)。その接続にはもどかしさと苛立ちが私にはある。私にはあずかり知らぬ過去の出来事が、私の成したこととは無関係に迫ってくる、ということにたいする無力感がもどかしさや苛立ちを私の中に生じさせるのだと思う。一方で、上記のウィキペディアにしろ自称プロ評論家にしろ、そこにある論理はこうした過去、現在という時間軸がすっぽりと抜け落ちているのである。すなわち、「今北朝鮮が糾弾すべき存在であること」と「1968年の北朝鮮」の時間的関係があっけないほどに無視されている。あるいは、最も注目すべきであるにもかかわらず彼らがおそらく理解していない主人公の公立高校生のもどかしさだ。私はそのもどかしさに自分を重ねてしまう。恋をしている自分と日本は関係ないではないか。なぜ朝鮮高校の女の子の隣人たちは私を排除しようとするのか。だからもどかしく、だから主人公はギターを叩き割り、それでも恋を成就させようとする。プロ評論家はこの在日朝鮮人たちに三行半をつきつけられながらも”イムジン河”を歌う主人公を「自虐史観」ないしは「反日風味」と評価し、朝鮮人側に譲歩がないからダメだと結論する。そこに私はのっぺらぼうの幽霊をみたような、あるいは(なぜだか)無表情に小動物を殺す人間を見ているようなそんな気分になる。圧倒的に無謬なるアイデンティティ。彼らの論理はどうやらそこに発するのである。

あまりに長くなり蛇足になるけどあまりにひどいのでもうひとつだけ。再びプロ評論家である。

劇中で語られる歴史認識にしても、彼らからの一方的な言い分をゴメンナサイと受け入れるのではなく、誤りはこちらからも指摘していかないと、相手のためにもならない。

翻訳すると、全ての映画は道徳教育であるべきである、ということになる。”良識”があってさぞ結構なことである。教育基本法改正に賛成している人ってこんなひとなんだろうな*1

*1:これについては明日にでも書こう